S=Soto-neko 外猫
もうばれていると思うけど、猫好きである。
自分の家の猫だけでなく、よその子も、そのへんのノラ猫もみんな可愛い。
ハチ(わたしが初めて飼った猫)が死に、キュウ(2代目)が来るまでの2ヵ月弱、猫のいない時期があった。家の中に動くものがいないことが寂しくて、ぼんやり庭ばかり見ていて、そうしたら急に鳥が好きになった。
2〜3月にかけての季節は、鳥類にとってはすでに活動期なのだろう、時間帯によって実にいろいろな鳥がやって来る。じっと見ていると種類によって力関係があるのがすぐにわかった。さらにじっと見ていると、同じ種類でも個体によって性格が違うことがわかった。強気なやつとか、やけに臆病で、常に二番手につくやつとかがいるわけです。
ハチが食べることなく残していった獣医さんお薦めの「栄養バランスのすばらしい無添加のキャットフード(なかなか高価だった)」がたくさんあったので、食べ物だもの、鳥にだってイケルかも、と、庭に置いてみたら、どうして、これが大好評だった。
「こいつらほんとは何でも喰うんだ!」とちょっぴり恐い気もしたけど(だって、猫のエサですよ!)まあ、本人達が良しとするなら、と思って毎日やり続けていたら、近所の鳥界で評判になっているとしか思えないくらいに、集まりが盛んになった。わたしを見つけると庭の潅木に降りて来てじっと待っているのもいたりして、小さな生きがいを感じてしまうほどだった。
ところで、連日のキャットフードでさすがに胃がもたれたらしく、お皿の中にエサが残るようになった頃、近所で何度か見かけたことのあるノラ猫が顔を見せるようになった。
最初に来るようになったのは全身真っ黒のオスで、きれいな毛並みだが耳の毛だけが禿げ、ガビガビになっているやつだった。物おじせず、人間のことなんか相手にしてなくて、エサをやると離れたところから見ていて、わたしがその場を離れるのを待ってやって来て、悠然と食べ、去っていく。
クロちゃんと呼んでいたけど、本人は「ちゃん?冗談じゃないぜ」と思っていたに違いない。
クロちゃんの餌付けに成功した頃、噂を聞き付けたかのように、いろんな猫がやって来るようになった。小柄なキジトラとか、帽子をかぶったような柄のおばあさん猫とか、膝あてみたいなブチの子とか。みんなクロちゃんに一目置いていて、やけに焦って立ち去ったなあと思うと、たいてい向こうからクロちゃんがやって来るのだった。
そんなノラ達の中で、うちに定着したのが「ハチワレくん」だった。ハチワレくんは見るからに弱そうでこっそりした感じの猫だったので、毎日わがもの顔でごはんを食べられるようになるとは思わなかったから、これは意外な展開だった。
ハチワレというのは両耳から額にかけてブチの入った模様のことで、八の字のようなブチがセンター割れの格好で入っているという意味です。迷うことなく「くん」付けにしていたが、後で女の子だということが分かり、それでも相変わらず「ハチワレくん」です。
彼(ほんとは彼女)は毛色と体つきと年から見て、どうやらクロちゃんと帽子のおばあさんの子供らしい。なにより、耳がクロちゃんとそっくりのガビガビ状態だったことが、うちでは親子の証明とされた。ハチワレくんはクロちゃんが来るとサッと譲るように立ち去るけれど、クロの方ではそう避けている様子もないし、帽子のおばあさんとは時々じっと向かい合って座っていたりする。うん、やっぱり、親子だ、間違いない、と勝手に確信しているわたしだ。
猫の集まりが盛んになった頃、啓蟄も過ぎ、鳥達もキャットフードなんかつついてる場合じゃなくなったのだろう、わたしもすっかり猫好きに返り咲き、我が家に来たばかりのキュウにメロメロになりながらも、外猫として定着したハチワレくんにエサをやり続けた。
ノラ達の中で、年も若く、とんまそうで、いちばん処世の下手そうな彼(彼女だってば)が、ライバル達を抑えてうちの庭に生き残れたのはなぜだろう。おそらく、自分の決まったエサ場がなく、一番切羽詰まっていて、このチャンスを逃すまいと必死にがんばった結果だったのだろう。
夏の終わり頃までは、こちらが無造作に動いただけで逃げてしまうほど警戒心が強かった。それが、ある時気がついたらお腹を撫でさせるほどに慣れていた。毛並みも見違えるほどきれいになり、ちょっと小太りな猫になった。会うたびに可愛いねえ、可愛いねえ、と言っていたせいか、顔つきも柔らかくなり、名実共に可愛い猫になりつつある。でもいまだに耳はガビガビ。だが、これは親子の証拠だから仕方ない。
食べるために必死になり、知らない恐い人(わたしです!)のところで勇気をふりしぼってごはんを食べ、そのうちに食べ物の心配をしなくていいことがわかり、生まれて初めて「可愛い」と言われ(この、生まれて初めて、というのにわたしは結構確信がある。なぜなら、半年前の彼はどう贔屓目に見ても決して可愛いルックスではなかったし、お向かいの植え込みにずらりと並んだペットボトルは、どう考えても、そこで日なたぼっこする習慣のあるハチワレよけのものだからだ。)、お腹がすいていなくても、撫でられるのが嬉しくてあの家に行ってみようと思う。猫好きにありがちな深読み?いや、そんなことはない。
エサがきっかけ。エサだけの関係。わたしは、それで全然構わない。
生きるために切ないほど必死になって、驚くほど変化していく。
その事実が、潔く、清清しく、きみは立派な猫だねえ、と心底思うからだ。
きっかけなんて、なんでもいい。食べていかなくちゃ、でも、お金が欲しい、でも、なんでも。
大切なのは、与えられた場をどう捉え、そこで自分をどう活かしていくかだ。そして、場というのは、誰にでも等しく与えられているものなのだ。どんな場であるかは、もちろん人によって異なる。それが個性というものだ、とわたしは考えている。
まだ1月だが、季節は明らかにもう冬ではない。活発に活動し始めた小鳥を捕ったり、猫もなにかと忙しい時期らしい。年末の頃には一日中うちに来て甘えまくっていたハチワレくんも、最近は2日に一度来ればいいほうだ。一日中庭でにゃあにゃあ言われてもなあ、と思っていたが、来なければ来ないで心配になる親心。
だが、ノラ猫たるもの、一度出かけたらまた戻って来る保証は、ない。
それで、いいんだ。ベタな猫好きといえども、その時々を精一杯、必死に生きている彼の人生に指図をするほど野暮じゃないし、その時々の必要に応じて自分を変えていく彼の勇気と適応力に心からエールを贈るものだからだ(彼女だってば!)。
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