神蔵さんの踊りは女性とか男性を超えている。それは、つぶやきでありささやきであるが、大きくうねる波音や窓をゆさぶる風の音でもある。幸福だが孤独であり、切実で切ないが懐かしさを呼びさます。踊ることは空間を作ることだと彼女に教えられた。 吉本ばなな(作家)
東京・町田の幼稚園で、「こばとダンスクラブ」というこども達の自由な表現を大切にするダンス教室を行い、また、若い人達のダンスグループ「スーパー・フローティング・スタジオ」を主宰しているダンサーの神蔵香芳は、80年代から、そのとぎすまされた感性と透明感を持ったダンスが注目され、渋谷の「ジアンジアン」など、都内の劇場を中心にダンスの公演を続けながら、ソロの作品を次々と発表してきた。
こどもの時からダンスを始め、桐山良子や邦千谷といった前衛的な舞踊家との若い頃の出会いの中で、神蔵香芳は、「踊ることで、光や音といった外の世界と心の中のイメージの世界がつながっていく」という、ユニークなダンス観を育くんでいく。そして、空間や、照明や、音楽などを自分の思いでコントロールするのではなく、むしろ、そうしたものに溶け込んでいくような独自の身体表現を身に付けていった。
世界を全体として感じていたこどもの頃の感覚を出発点にして、ダンスを世界とつながっていく方法としてソロの活動を始めた神蔵香芳は、次第に、忘れかけた記憶を呼び起こし、もう一人の自分と対話していくような作品を形作っていく。97年からは「カホウダブルスダンスタインスタ」という、自作の映像やオブジェ、インスタレーションとダンスが共演し、空間に統合されていくというプロジェクトを続けている。
パカッショニストの風巻隆との共演は、88年から断続的に続けられ、音楽とダンスが深いところで共感していく即興的な作品を、明大前のキッド・アイラック・アート・ホールや、ライヴスペース、ギャラリーなどで作り出していく。93年には、伊丹「アイホール」での「I&I VIBRATION」に神蔵香芳+風巻隆で参加し、岩下徹+梅津和時、山田せつ子+藤枝守とともに、ダンスと音の出会いを作品化していった。
94年にニューヨークを訪れたとき、偶然見つけたダンスの共同練習で、さまざまなタイプのダンサーと一緒に踊るという経験をした。言葉が通じなくても、「自然に」踊ることで「普通に」コミュニケーションが取れるというこの時の体験は、「ダンスは生きることのもうひとつの形で、なぜ踊るのか、何を踊るのかということは、そのまま生きることへの問いかけだ」という彼女のダンス観を、確かなものにしていった。
それからの神蔵香芳は、躍動感のあふれた、ダイナミックな動きを見せるようになっていく。「踊ることは空間を創ることだ」という彼女のダンスは、からだの動きを空間にあまねく広げていき、「とらわれのない開かれた表現」を緻密に形作っていく。「ひとつの動きのなかに限りないイメージが在るのが見えるようになった」とき、ダンスは断片的な言葉をも取り込みながら、言葉にできない物語を語り始めていく。
|