能の一。三番目物。世阿弥作か。年老いて近江国に庵居する小野小町は関寺の僧の訪問をうける。寺の七夕祭に案内され、稚児の舞にひかれて往時の夢を追うが、老いの無残を思い知らされる。「姨捨」「檜垣」とあわせて「三老女」という。(三省堂 『大辞林』)
「関寺小町」を想う。
関寺小町は、たいへんにむづかしい能で、現代ではおそらく、上演できるひとはいないだろうといわれているらしい。幻の能。その能を上演することの出来た能楽師がいた。桜間弓川。50年以上むかしのはなしだ。
能に関する知識はほとんどない。ただ、関寺小町の上演にまつわるエピソードを聞かされてから、それが意識にくっきりと刷り込まれてしまった。気持ちがへたりそうになるとその話がからだの底から湧きあがってくる。疲れたら眠り、空腹になったら食欲がわくような自然さで。
桜間弓川は、能の世界ではたいへんなビッグネームらしい。戦後間もないころ、混乱と荒廃のなか、一流の能楽師であっても仕事の無い時期がつづいた。能どころではない、そういう社会の空気は容易に想像できる。余裕がないことに加え、新しい価値観によってこの芸能がすみっこに追いやられるような面もあったかもしれない。とにかく、仕事がない。舞う機会がない。
「だからこそ、幻といわれる関寺小町を上演することができた。」
この話をしてくれた知人は云った。
関寺小町が幻とされていたのは、それがあまりにもむづかしい作品だからだった。
桜間弓川は、稽古に稽古をかさねた。仕事のないままに、上演の予定もなく。不可能といわれる能を、可能な現実として咲かせるほどの稽古。
静かな口調で知人は続けた。
「仕事があったら、そこまで全力を注げなかったから。すべての時間を稽古に集中してはじめて、今後これほどのものは出ないだろうといわれる、そういうところまで行き着くことができたんだ。」
彼には時間があった。仕事があったらとても確保できない程の稽古のためだけの時間。
時間とは、こうあるべきものだ。刻々と過ぎ行くものをやり過ごさず持て余さず追われずに、腹を据えて。一秒一秒が努力するために与えられている。
「関寺小町」を想う。
時間だけが目の前に荒涼と広がり、その時間だけを頼りに、無いかもしれない高みへと歩みだせたという希有な事実。
彼の目の前の空前絶後の荒野が、後にひとびとに幻と讃えられる精神の高みを芸のなかに結晶させた。
「せきでらこまち」「さくらまきゅうせん」。
何もなくて空虚なとき、つめこみすぎてからっぽのとき、心にヒットするふたつの言葉。
見たことさえない。なのに現実以上にリアルに。