F=Furituke?  振付け?

 あなたのダンスは即興ですか?と聞かれることがある。
結論からいうとNOなのだが、聞かれると気になって、即興と振付けはどう違うのか考えてみたりする。
ひとくちに即興といってもいろんなタイプがあるだろうし。
 個人的には、ミュージシャンと共演する時以外は、即興のダンスを人に見せるということに興味がない。ダンスを見て即興だと思う人がいても、即興のつもりがないのだから、それは即興ではない。即興か振付かという言い方をするのなら、わたしのは振付けのダンスだ。
 わたしの振付けにはカウントがほとんどない。普通ダンスの振付けはカウントを軸にして組み立てられるから、ちょっと非常識な振付けということになるかもしれない。
カウントの代わりに動きの軸を成すのは、動きの質感や動きの気分だ。たとえば「固く縮まっていたものが柔らかくなっていき、溶けて流れ出す。流れ出す時は、失うものが何もないほどの潔い動きの気分で」みたいなことが中心にあり、そこに肉付けする形で動きを作っていく。実際に動いていく上で、「固く縮まって」いるときには本当に身体が固くなっている、というような外せない部分はあるが、それ以外は、床にしゃがんでいても転がっていても構わない。
 カウントに置き換えることのできる動きのモチーフがある場合でも、体と気持ちの立ち具合で動きの間合いや角度などをどんどん変えていく。カウントはあって無いようなもので、だから、やっぱり振付けがあるように見えないのかもしれない。
 こんな振付け方をするのは、単純にいうとカウントと形が決まっているダンスを踊るのが好きでは無いからだ。出来ないというわけではないけれど、あまり楽しくない。
 稽古場でわかることと、リハーサルでわかることと、本番でわかることは違う。その時々これがベストと思っても、本番には本番のもっとフィットした表現があるかもしれない。稽古とリハと本番は昨日と今日と明日が違うようなものだ。予測しなかったものが本番に現れても不思議はない。すくなくともその可能性の扉は開いておきたい。だから、表現したい内容に踊りの芯をしぼっておき、カウントや形などの要素はフリーにしておく。身体の動きは魂のかたちだ。魂がそうであるなら、立とうがしゃがもうが転がろうが、それでいい。
(2002年)