F=Fairy 妖精

 もうずいぶん長い間、ある幼稚園で子供達に身体表現を教える仕事をしている。毎年200名弱の園児をみているので、通算するとこの園だけで3000人位の子供と踊ってきたことになる(!)。
さすがにこれだけの数になると、卒園してしばらくたった子供の名前が出てこなくなることも正直いって多い。道ですれ違って、あれ、もしかして?と思っても確信が持てないこともある。子供の方から声をかけてくれれば、すぐに幼稚園の頃の面影が浮かび上がって来るのだけれど。
 仕事の終わる時間が小学生の下校時と重なる時は、園からバス停までの数百メートルの間、内心ドキドキだ。確率としては(地元なので)卒園児がいないはずはない。
明らかにそうとわかる子なら、しわが増えそうなくらい嬉しい一時だが、見たような顔でもはっきりわからない場合には、なんとなく当たり障りのないすれ違い方をしてみたりする。相手に反応がないと、ああ、やっぱり違うんだ、とほっとしたりする。
卒園児でなくても学校帰りの子供を見かけたら、おかえりなさいと声をかけられるような社会だったらいいのに。でも、子供が被害者になる悲惨な事件がおこるたびに「知らない人」は知らない人の立場をはみ出さないことが時代の流れだという気がしてしまう。けっこう気弱な人間なのだ。
 さて、先日、いつものように仕事を終えてバス停に向かう途中、学校帰りの女の子がひとり、向こうから歩いて来た。体格は大きいが、よく新入生に配られる交通安全の腕章を付けているので、たぶん一年生なのだろう。一年生ということは、昨年度の卒園生だ。それなら顔はわかる。自信を持って歩いていくと、どうみても知らない顔だ。なら、わたしは「知らない人」だ。そう思って通り過ぎようとしたその瞬間、彼女は斜めまえの地面に向かって何かを投げ付ける動作をした。
 思わず立ち止まって振り向くと、何かキラキラしたものがアスファルトに砕けるのが見えた。女の子は厚さ5ミリ位の氷を手に持っていて、わたしの顔をじっと見ると、今度はいきなりその透き通った板をバリバリ食べ始めた。
「あら、氷」
彼女の有無を言わせぬ表情に、話しかけざるを得ないといった気分にさせられた。
「知らない人」だけど、まあいいや。
 なんだか言葉のはっきりしない子で、もしかしたら障害といえないくらいの軽い障害があるのかもしれない。入園したての3才児と会話するように様子を見て取って言葉でなく状況で対話するしかない状態だった。都会の子には珍しく青っぱなをたらして、服装もなんとなく薄汚れている。言葉にならない音を発しながら氷を齧る大きな前歯や凍えて真っ赤になった指先を見ていると、この子はきっとクラスでも独りでこんなふうにしているんじゃないか、そんな気がしてきた。大きな瞳が愛らしく、まなざしは真直ぐだが、それがよけいに内側の自分とそれを包む外側の自分の折り合いがつかないもどかしさを感じさせる。
 彼女の様子に応えて、「おいしい?」とか、「いいわねえ」と言いながら、いつしか、がんばれ!いつかきっと大丈夫になるよ、そんなふうに思っていた。
 実際にはもっと何か言葉を交わしていたのだっただろうか。氷をどこで見つけたのか、とか、そんなことの説明を聞いたのかもしれない。思い出そうとしても思い出せないのは、彼女にとって、向かい合って立っているという状況だけが大切だったからなのではないだろうか。時間にすれば、ほんの数分。誰かが自分をじっと見つめて向かい合っている。そのことだけ。
 しばらくして、どちらからともなくさよならを言った。すごく自然な、友だちみたいな感じだった。
別れ際に彼女はこう言った。
「ねえ、ガラスだと思った?」
別人のようなはっきりした発音だった。たいした子だ。絶妙のタイミング。
理由はわからない、だけど、この子は孤独なんだ。はっきりそうわかった。
「うん、ガラスだと思ったわ」
なんだか、胸が痛く、暖かかった。
 
 つい先日のことなのに、あれから何度も彼女のことを思い出している。思い出すたびに具体的な要素が消えて、向かい合って立った時の空気感みたいなものばかりが強くなってくる。
そもそもあの子、本当にいたんだろうか。そんなふうにさえ思う。 
 どこの誰とか、何故とか、そういう要素が全部透明になって、気持ちだけがそこに残る。ひとと向かい合いたいという気持ち。愛されたい、大切にされたいという願い。その切実さが身体を超えてひとつの存在として結実する。そうやって出現した生き物。まるで、妖精だ。鼻をたらして、薄汚れて、ランドセルをしょった妖精。イギリスのお話なんかに登場するのとはずいぶんイメージが違うけれど。
 小春日和が続いた後、久しぶりに気温が下がり、寒さが沁みるような真冬の昼下がりの出来事だった。