O=小澤征爾のウィーンフィルニューイヤーコンサート
2002年のウィーンフィルのニューイヤーコンサートの指揮者は小澤征爾だった。情報を目にして、それは楽しみと思っていたけど、元旦になったらすっかり忘れてしまい、結局見ずじまいだった。
欄とか表とかの細かいものを見るのが、最近やけに苦手になり、番組表のチェックが出来ない。だから、見たいなと思っても、たいていそのままになってしまう。番組の選択肢が多くなるほど情報を把握する意欲が無くなって、ケーブルテレビに入ったら殆ど自分の見たい物がいつどこのチャンネルでやっているかチェックできなくなった。そんなわけで、うちではテレビは特定の番組を見るための装置というより、暇で、そして、手持ちの音源じゃないものを聞きたくなった時になんとなくスイッチを入れる環境装置だ。たまたま見たいものに当れば見るし、うるさくなったら消す。
というわけで、寝坊した日曜日の朝、食欲もなくコーヒーも切れていて、いかにもどんよりしてきそうな状況を変えようと思って、テレビのスイッチをいれた。日本の経済はどうしたら回復出来るかという番組がついた。解説者の訳知りふうで淡々とした低い声をサウンドとして聴きながら、紅茶でいいや、とお湯を沸かし終わった頃、気がつくと番組は終わっていて、次に、「あなたが選ぶアンコールアワー」という番組が始まった。内容は、ウィーンフィルのニューイヤーコンサート。!!!
起き抜けにいきなりの感動だった。行き当りばったりだから、一期一会感も大きい。
見れて、よかった!!
クラシックはCDで聴くよりTVで見るほうが好きだ。オーケストラ編成のものは、特に。
理由は指揮者のパフォーマンスが観たいから。なかでも、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートは、曲目がポピュラーなので指揮者の曲にたいする解釈(その音楽をどんなふうに愛しているか)がよく分かるから好きだ。ウィンナーワルツも理屈抜きで大好きだし。
指揮台に立つひとの動きは、美しい。音楽と身体の関係の最高の完成形のひとつがそこにあると思う。これ以上はないほどの繊細さと強さ。たくさんのものが詰まっている。空虚な時間が一秒もない。指揮者によって何がどう違うのか分析は出来ないが、明らかに何かが違うことは聴けば(観れば)わかる。それが、表現の個性というものなのだろう。
小澤氏の指揮は、最高に優美で、繊細で、こだわりのない力強さがあり、知的だがそれを超えて熱いものだった。この言葉で片付けるのはお手軽すぎるかもしれないが、まさに日本的というしかない繊細さと潔さだ。これまでにも何度か映像を観てすごいと思っていたが、ああ、本当にすごい、と思った。
それにしても、演奏中に多用されるイメージカット、あれは何とかならないものなのだろうか。アナウンサーは「実におしゃれ、さすがウィーン」とか言っていたが、冗談じゃない。
せっかく衛星中継までしながら(わたしは再放送だが)、なぜ会場にいたら絶対に見るはずのない風景を流さなければならないのか。曲のイメージを膨らませたいという意図があることはわかるが、しかし、それもよけいなお世話だ。水彩画をテーマにした曲で、美術館の水彩画の展示風景を見せられても、しらけるだけだからだ。恒例なのでいろいろしがらみもあろうが、ひとつ思いきって、ぜひ、イメージカットを廃止して、指揮者とオーケストラに映像を集中してほしいものだ。
と、比較的冷静(?)だったこの意見が、切実な心の叫びに変わったのは、アンコールのウィンナーワルツの時だった。ワルツにはワルツを、ということなんだろうけど、ほとんど全編がウィーン国立歌劇場のバレエで、しかも安っぽいストーリーがつけてあって、かなり最悪だった。
ウィンナーワルツを指揮する小澤征爾にわくわくしていたので、罪もないバレエのソリストへの憎悪が倍増した。しかも彼のルックスが王子みたいだったのでよけいに、ふざけるな、と柄が悪くなる。
音楽通の人は、聴くだけで指揮者の動きが分かるのだろうか。もしそうでもないとしたら絶対に指揮者の映像を見せるべきだ。この音が心の中のどんな思いから生まれているか、それを身体がつぶさに見せてくれるからだ。こんなふうに言い張るのは、わたしが音楽に造詣が薄いからなのだろうか。音楽は耳で完結しうるものなのだろうか。やっぱりそれでは片手落ちな気がする。いくらわたしが素人でも。納得できない。
さて、ハンサムなソリストに怒りまくりながら彼らの踊りを見ていたわけだが、おかげでわかったことがある。それは、指揮者の動きとダンサーの動きの根本的な違い。こう言ってしまうと当たり前すぎるが、もちろんダンサーとそうでない人などということではない。曲にのって踊る身体の動きと、曲を発する身体の動きの違いだ。
どちらも軸になるのは曲だ。だけど、曲に合わせて何かを表現しようとしている身体と、曲そのものを表現している身体という点で、決定的に違う。熟練したダンサー達のいわゆる美しい動きに怒りに近い空虚さを感じた理由がここにある。
そもそも、表現する、と、表現しようとする、は違う。曲そのものを表現する、ということの中には何かを表現しようとするという意図はない。曲の中にある喜びや悲しみや生や死、そういうものとしてそこに存在していく意志の表明に近い行為だ。だから曲に合わせて、あるいは、曲にイメージに触発されて踊る身体とは決定的に違う。指揮者が指揮をする時、彼の身体は音楽そのものだ。個人の自我のコップに音楽をなみなみと注ぐ。自分の思いやこだわりなどが押し流され消えて、はじめて、彼の個性と彼が彼であることの価値が輝きだす。指揮者にとって動きの目的は、演奏者に感覚を伝えること。その感覚は抽象的に現されるが、完全な抽象には個的な具象性にリンクする性質がある。だから、踊りでも何でもない指揮者の動きによって、様々な感情や感動が湧いて来るのだ。
さらに、もうひとつ、あらためてわたしが注目するのが、身体の動きと音楽の完全な一体化ということ。指揮者の動きだから当然なのだが、動くことから音が生まれる。強いアクションと強い音、わたしたちはこれをほとんど同時の出来事として知覚するけれど、注意して見ていると、たとえば息を吸い、そして吐くように、アクションを起こすタイミングが先にあって音が発生していることが分かる。このことは、ダンスと音楽の関係を考える場合に重要なヒントになる。生演奏でなく既製の音源を使用する場合、特に、ここら辺の意識が音とダンスの関係のベーシックな部分を決定するような気がする。音楽に合わせるのか、身体が歌うのか。
ところで、番組の最後でインタビューに答えた小澤氏の言葉。「こんな時代に、音楽なんて意味を持てないんじゃないかと真剣に考えたけれど、いまは、人間には感動する心が必要だと再び信じて、演奏している」。これほど偉大な音楽家が音楽にたいして懐疑的にならざるを得ない時代、ということでもあるが、この真摯さに撃たれた。実際は、もっと、フランクで心に響く言い方だったのに、正確に覚えていなくて残念だ。
|