N=ねこ

 最近、夏が夏らしく冬が冬らしくないような気がする。
地球温暖化のせいかもしれないし、ろくに衣替えもしないで年中おなじようなものを着ているせいかもしれないし、年間のリズムがダンス公演を中心に組まれているので、クリスマスだろうが正月だろうがおかまいなし、というところに原因があるのかもしれない。
 ふとした時に、今がどの季節なのかわからなくなることがある。
もちろん今が今であることはわかっている。今がこれから寒くなる時間の流れの中にあるのか、これから暑くなる流れにあるのか、そのイメージが逆行してしまうことがあるのだ。
そんなことのせいか、「去年の今ごろ」を思い出すことで季節を確認するようになった。
5年間日記とか、10年間日記とか、なんて年寄り臭いんだろうと思っていたが、5年分の同じ日の出来事を並べてみたい気持ちがなんとなくわかる気がする。
昨年はいつ頃ストーブを出したんだっけ、というように何かと昨年のことを参考に、無いに等しい季節のリズムを組み立てようとしているからだ。
 でも、この1年は「去年の今ごろ」を思うとリズムを取り戻すどころか涙が出るだけだった。
14年間一緒に暮らしたネコの腎臓病が悪化して、一進一退を繰り返す彼の病状とともにある1年だったからだ。昨年の今ごろは「ストーブを出した」とかでなく、家でネコの点滴をはじめた時期だった、というふうにどの季節も彼の闘病と結びついてしまう。
 ネコがそんなに悪くなかった季節を思いだしても、ダメだ。
春はまだ元気だった、と思っては泣けて来る。
でもあのころから食が細くなったから調子を崩していたんだ、と思っては泣けて来る。
暑い盛りに水をやけに飲むようになって、あれ?と思う間にどんどん痩せて、その後6ヵ月通院や入院を繰り返して立春よりすこし後の寒い夜明けに、逝った。
約一年間病気に必死で耐えがんばった彼の体力のせいで、つまりは一年中のどの季節を思い出しても、泣けて来るようになってしまったわけだ。
 今年はコタツをなかなか出せなかった。
元来寒がりなので、10月初めには確実にコタツにはまっているのに、12月半ばの本当に耐えられない寒さのころまでどうしても出す気になれなかった。
最期のころ、コタツの中で身を潜めるようにじっとしていた彼のことを思い出すのが辛かったのだ。
でもあまりの寒さに、出さずにいられなくなって、出しながら、泣いた。
 去年の今ごろはダンスの公演をいくつか抱えていて普段より留守にする時間が長く、毎日家に帰ると、もう迎えになんか出ることの出来なくなっってしまっていたネコの様子を見に、まっ先にコタツの中を覗くのが習慣だった。
手帳の隅に、わたしが出かけている間に死んでしまわないで、とおまじないのように書いてあった。
公演なんか無ければ良かったのに、と思った。
自分にはダンスしかないのにこんな思いが湧くとは我ながら意外だった。
 あるコンクールの本番の朝、病状が急変した。
病院に連れていったら、リスクの大きい手術かこのまま安楽死かの選択をせまられた。
手術を選んで、劇場に行った。これはこれ、と冷静に切り替えるつもりだった。
でも、出来なかった。具体的に彼のことを考えていたわけではない。なにか、自分が定まらず、頭がのぼせたような状態で、終わった。いいかげんなダンサーだと思った。舞台人は親の死に目にも、みたいな話を、そんなの当然とどこかでたかを括っていた。
 手術はうまくいって、数日後には退院できた。
もう当分ダンスも無いし、これからはもっともっと看病出来る、そう思うと嬉しかった。
自分からは何も食べられなかったけれど、口の中にうまく入れてやればまだごはんも飲み込むことが出来たから、もうダメだなんて少しも考えなかった。
病院での点滴がうまくいったので、身体もふっくらして見えて、顔つきも元気だったころに近かった。
家に帰って、少しごはんを食べて、コタツの中で長くなって眠った。
きつい時は長くなったりしないので、長々として寝息をたてる姿が本当に嬉しかった。
 その夜半、突然痙攣をおこして、呼んでも意識が戻らなくなった。
同居人と交代でなるべく心臓に負担をかけない姿勢のだっこをして夜を明かした。
たまっていた疲れのせいでついうとうとしていたら、同居人が低く強い声でネコの名前を呼んだ。
数秒間の痙攣のあと、頭がくたっとした。死の瞬間だった。
大人げなく何度も名前を呼んで、まだ死なないで、と願った。
同居人に、もう、いいよ、逝かせてやりなよ、もうじゅうぶんがんばったんだよ、と諌められた。
こんなのって気狂いじみてると思いながらも、いつまでも抱き続けていた。
お昼過ぎに近所の動物霊園に埋葬に行った。驚く程白くてきれいな骨だった。いつのまにか雪になっていた。
 最期の一日、コタツの中でながなが寝てくれたのは、彼からのプレゼントだ。たぶん手術の時点でもうヤバかったのを、医者を納得させるほどに回復してみせて、「わたしが一緒にいないところで死なないで」という願いをかなえてくれたのだろう。
そう思わせるほど、彼はわたしの気持ちに寄り添った生き物だった。
14年間つぎつぎと病気をしたり怪我をしたり、そのたびに胸がつぶれる程心配して、治療費に貯金を叩き、けれど、彼に支えられていたのはわたしの方だった。
 いいかげんなダンサーじゃなくなって、うだつが上がるまで次のネコは飼わないという決心も脆く、耐えきれずに冬の最中に子猫を探した。
5月ぐらいにならないとそうそう見つからないよ、といわれながら偶然ネット上で見つけた子猫が、いま家にいる。
普通に考えればこの子も確実にわたしより速い時間を生き、先に年老いていくだろう。
そうなる前に、いまよりは成長していいかげんでないダンサーになっていたいと、心底思う。
 時間は永遠ではない。
進めば進むほど先は短くなる。
あたりまえなだけに実感しにくいこのことを、ネコはわたしに教えてくれた。



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