その場所を通るのは一週間に一回だけだ。
稽古場にしている体育館への近道で、静かな住宅街の一角。
夜の稽古が終わって家に帰るころには、ほとんど人通りがなくなる。
先週通った時もその子は同じ場所にいた。
坂道に面した茂みを囲ったブロック塀が一段低くなった小さなスペースにきちんと手足をそろえてうずくまったその子とちょうど目があったのは、きつい坂が登りきれず自転車をおして歩いていたからだった。
両耳から目にかけて黒のぶちが入った白い子猫。まだ生まれて3ヵ月経つかたたないかだろう。
あれあれ、可愛らしいと、思わず指先を少し近付けたら体を固くして後ずさったので、それ以上怖がらせないようにそっと立ち去った。
それが一週間振りにその場所を通ったら、またいたのだ。薄暗い外灯の明かりの中、先週と同じ場所に同じ格好で。こんどは指先を近付けるそぶりをしてもまったく逃げる様子がない。
あれ?と思ったその瞬間、頭の中で硬い現実がパチンとはじけた。この子は弱っている、それもかなり。
10月も半ば過ぎ朝晩は冷え込むし、お腹もすいていないわけがない。
あわてて家に帰った。以前家に来ていたノラの子猫のために買ってあった子供用のフードがまだあったはずだ。あれをあの子に食べさせなくちゃ。自転車でほんの数分の家までの距離がもどかしく感じられる。
ノラ猫の生活は自分の縄張りの近くに猫好きの人間がいない限りかなり過酷だ。
ましてこの子のようにまだ乳ばなれして間もないような子猫が生き延びるには、そうとうな体力と運が必要になる。ノラ猫にエサをやることの是非についてはいろいろ意見もあるだろうが、とにかく今は何かを食べさせなくちゃ。
キトンフードの袋を握りしめてかけ戻ると、その子は捨て置かれた毛糸の塊みたいにじっとしたままだった。エサを差し出しても、分かるのに少し時間がかかった。立ち上がる足どりは頼り無く、体重なんかもうほとんど残っていないみたいだった。
ところが、ドライフードを歩道の隅に出す音がカラカラと響いたその瞬間、子猫の背後の茂みからふわりともよたりとも言いがたいものが飛び出してきた。それは、くしゅんくしゅんくしゅん!と立て続けにくしゃみをしながら、吸い寄せられるようによろよろとエサの上に屈んだ。
茶色の成猫。この子のお母さんなのだろう。毛並みは乱れ痩せこけて、明らかに風邪か鼻炎で弱っている。お腹がすいていることは明らかなのにドライフードが上手く咽を通らないらしく、食べるのをあきらめてくしゅん、にゃあ、と言いながらすりよってくる。
この茶猫に近寄ってはいけない。うちにも猫がいるのでとっさにそう思う。
こういうウイルス性の病気は厄介なのだ。たかが風邪、なんて思っているととんでもないことになったりする。ごめんね、ごはんしかダメなの、せめて食べてね、こう思いながらさらにエサを追加してそっと立ち去りかけると、お母さんはエサを食べている子猫から少し離れて、見送るように道のまん中にすわっていた。
病気の辛さは言うまでもないが、自分が弱って子供に食べさせることが出来ないことがどんなに辛かったことだろう。 こっちをじっと見ながらシッポをぱたぱたと動かす姿から、子供がとりあえず今ごはんを食べたということに感謝している気持ちが伝わってくるような気がした。それは、わたしに対してというのではなく、その状況に対する感謝だ。ひとつひとつ状況を積み重ねて生き延びていくしかない生き物。暗いアスファルトの上にきちんと手足をそろえてすわったシルエットが痛々しく、けれど毅然としていた。
子猫は元気を取り戻すだろうか、お母さんもすこしは食べることが出来ただろうか。明日の夜また見に行ってみようか。そんなふうに思っていたら、雨の音が聞こえてきた。
現実ってどこまで過酷なんだろう。風邪をひいているのに。冷たい秋の雨。
きちんと面倒を見ることは出来ないから、ノラとの付き合いはエサを与えることだけと決めている。うちに通ってくる子ならまた別だが、この親子のように離れた縄張りにいる子には情をうつさないのがわたしの基本方針だ。どんなに哀れでも自分にはどうにも出来ない。せめてそのことをちゃんと理解する強さだけでも持たなくては。
だけどこの雨だ。こらえきれず涙が出てきた。雨脚はますます強くなり止む気配もなかった。