K=Kneeひざ小僧

あたりまえのことだけど踊る時、すごく気になるのが床の材質です。
床に立って(あるいは寝転がっていても)踊る以上、足の裏と床の関係が動きにすごく影響するからです。
物理的な堅さや摩擦の大きさだけでなく、触れた時の感覚というのもあります。
靴を履いていても、裸足でも。
 最近はたいてい劇場にあるリノリウムを使うけど、「地がすり」という布で、それも白やベージュのものを使っていた時期もありました。ピンと張った真っ白な地がすりの舞台は美しく、素足で立つだけで心が研ぎ澄まされ、はりつめていくような空間だったけれど、ある時、踊ることが神聖な匂いのする行為にならないようにしようと考えてからはそれを使うのをやめた。だって、やっぱり踊りってなにか祈りとか神とかに関連する行為でしょう、そういう本質のものにそういう衣を着せるのはやめよう、白い地がすりに象徴されるような繊細さから離れよう、そう思ったのです。神様に会いに教会に行こうとは思わないけど、思いがけない偶然の日常にそういうものを感じるのならアリでしょう、という感じですね。
 それ以来、あまりというか全然こだわりなくそこにあるものを使うことにしていて、リノがなければないでOKなのですが、やっぱり床との関係は気になるので、シューズを何種類か試したり、裸足になったりして床と仲良くなっていく作業が欠かせられません。
木の床にもいろんな滑り具合や撥ねかえりのタイプがあるし、その上にリノを敷いてもそのリノ自体、摩擦の強さや粘りがいろいろなので、好きなタイプの床面に出会えた時は本当に嬉しい。
本来なら自分の動きのタイプに最適なリノリウムを持っているべきなんだろうけど、諸事情によりマイ・リノリウムは夢の夢。今はそれよりも出会った床とうまく付き合って、どんな床にも対応出来る動きのちからを身につけよう!というポジティブシンキングなわたしです!
 とはいうものの、先日初めて使った劇場のリノリウムは久しぶりにきつかった。
床はかなり柔らかかったので、リノを敷くのがベストではあったのだけれど、摩擦が強すぎて床に接した部分がピタリと留まってしまうので、膝をついた時に衣装のパンツだけがピタリと留まり、その中で膝が動いて擦り剥けたり、足の指の付け根が骨の凹凸にそって点々と擦り剥けるというめずらしいけがの仕方をした。
普通の(?)リノなら3回まわれるところも2回転がせいぜいで、それでも、靴(ダンスシューズでなく普通の靴)を履いて踊る部分と裸足で踊る部分の対比がコンセプトのひとつだったから、敢えて裸足で踊ったのだけれど、本当に手こずった。あの床とはちょっと仲良くなれないかも、と急にネガティブシンキングなるヨワなわたしです。
 ところで、そのあまりにピタリと留まるリノのおかげで、久しぶりに思い出したことがあります。
あの床で踊った意味はこれかな、と思うほど長い間忘れていた感覚。それは、「ひざ小僧を擦りむく」。
大人になって膝を擦りむくなんてよほどとんまな人でない限り日常生活ではあり得ないですよね。
膝はジョイント(関節)として認知されて、膝が痛むとか水が溜まる(!)とかいうことで意識にのぼってくるものでしょう。でも子供にとっては膝は皮膚でジョイントではない。転んで擦りむいて、いつまでも膿んだり、かさぶたを無理に剥がしてまた血が出ちゃったり。
あまりに当たり前だけれど、この身体感覚の違いがやけに新鮮だったのです。
仕事柄、腰をはじめ様々な関節がぼろぼろのせいか骨格や内臓で身体をとらえることが多いけれど、子供だったころ、手で触れる感覚やグランドで転んだ時の砂まじりの傷の痛さや頬ずりしてくれるひとのヒゲのざらつきや、そういう皮膚の感覚が主なからだの構成要素だったように思う。
 いったいいつ頃から膝を擦りむかなくなり、「ひざ小僧」が「膝関節」になったのでしょう。
世界に溶け込んでまわりを吸収するインプットの時代と、自我を確立して自分の中から光を出していこうと試みはじめるアウトプットの時代の分かれ目あたりでしょうか。子供から大人へ。
 ところで、大人ってなんなのでしょう。
子供が変化したものというより、子供を含んでいるものと考えるのが正解かなと思います。
自立したおとなは自分というものをはっきり持っていなくちゃ、と誰もが考える時代です。
そこには、しっかりした骨組みを中心に人間を捉えようとする意識が働いている気がします。
だけど、「自分」っていったいなんぼのもんじゃい、ともわたしは思うのです。
自分の気持ちを大切に、それは結構、でも、自分の気持ちにかじりついて何が分かる、とも。
自分というものにこだわるあまりに自分に対する考え方が限定されすぎていやしないか、と。
外側の環境によって作られ、揺れ動き、左右されっぱなしの皮膚感覚、それも自分。
骨から身体を組み立てるのでなく、もういちど皮膚から始める。
たまには膝を擦りむこう、ひざ小僧のかさぶたの痛がゆさを思い出そう。
本当の大人と大人らしい格好をはき違えるな。
なかなか治らないひざ小僧がこんなことを囁いている気がするのです。


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