ハチという猫と暮らしている。
キジトラ。オス。13才。体重6.3kg(98年3月現在)。
破格の大きさを誇るおじいさん猫だ。
ハチに出会ったのは大学を出て間もない頃だ。仕事の帰りに「空に近いところに行きたい」と思ってデパートの屋上に上った。そこに"猫の里親コーナー"があることは知っていたような気もする。大学に入って親元を離れた頃からずっと、猫がほしかったから。雨の日にずぶ濡れの捨て猫を見てしまうと、どうしてもそのままにできないくせに、結局飼いきれずに母に泣き付いて引き取ってもらったことも一度ではない。大人として自立できるようになったら絶対に、中途半端でなくちゃんと猫を飼おう、飼うことの出来なかった痛さを歯磨きのチューブをしごきだすような思いでこころのおくに留めながら、無意識にそう決めていたような気がする。ペットショップで猫のケージから離れられなくなったり、「こねこさしあげます」に電話してみたこともあった。でも、飼えなかった子たちのことを考えると、なかなか踏みきれなかった。
"里親コーナー"には、2,3匹の仔猫しかいなかった。「おんなのこは赤いリボン、おとこのこは青いリボン」となっているそのリボンもほどけて、飛び跳ね、転げ回っている、それがハチだった。耳の先がとんがっていた。濃くだしたミルクティーのおなかと、背中はくっきりした縞模様。おしりにうんちがついているのが気になったけど、理想のタイプだった。「空に近いところに行きたい」気分でなかったら、いろいろ現実的なもんだいを考えて躊躇しただろう。大人として充分に自立していたわけでもないし。でも、連れて帰った。迷いなく、あっさりと。跳べなかった跳び箱がとべたとき、着地したとたんにもう平静になっている、あのあっけらかんとした感じで。
ハチが家にきたことで、いろんなことがあった。生活は自然に猫を中心に整えられた。
ケンカや狩猟やなわばりやケガや病気や、猫を飼っている人なら知っている猫独特の習慣や習性やかわいい仕草などもたくさん味わった。
面倒なこと、大変なこと、腹の立つこと、悲しいことを全部ひっくるめて、何年も毎日見ているのに、どうして毎日こんなにおもしろく、こんなにかわいいのだろう。
猫が好きだからという、ゆるい感じじゃなく。
たしかに、相手が人間じゃないというのはポイントだ。言葉も習性も価値観も何もかもがはじめから自分と違う。そのことが「猫だから」こそあたりまえのこととして受け入れられた。自分をすり減らさずに、おもいやることが出来た。種の相異として認識すれば、「猫だから」にとどまるけれど、違いを個のアイデンティティーとして捉えると、個と個が自立して互いに侵食し合うことなく人生を共有して生きる有り様としてみえてくる。自分と同じであることを強要せずに、違うということから始める関係だ。近い関係にはありがちな思い込みや勘違いや、いろんな歪みを修正する糸口は、たぶんこのへんにある。
にんげんがともだちや恋人や肉親を愛し、愛したいと望むのは、相手と自分との間に横たわる違いをしずかなやさしい気持ちで受け入れられるようになるためのトレーニングなのだと思う。他を肯定できる深さをそなえたとき、きっと、尊厳をもった個と個が敬いながら共生していける。
これが、ハチと暮らす13年間でわたしが実感したこと。