「靴ってかわいい奴だと思うんだ。カブトムシみたいだろ」
大学の時つきあっていた男の子が云った。ときどき靴を全部部屋にならべて磨きあげる。ぴかぴかになった靴たちを眺めているとしあわせな気分だ、と。彼は子供のころ虫が大好きだった。なかでもカブトムシとクワガタは王様だった。
「今でも、よく夢にでてくるんだ。夏の朝早く家をでる。その樹の近くまでいくともうわかる。ぴかぴかのでかいカブトムシやクワガタがぞろぞろいるんだ。どきどきするよ。」夢のなかで虫採りに出掛けるのは子供ではなく大学生になった彼。そうか、きみはそうやってずっと虫採りをつづけているんだね。目を輝かせ興奮を押さえきれない表情を見ていると、夢という形を借りながらこのひとは本当に虫採りに行きつづけているのだとはっきりわかった。そんなふうにして、自分が自分であることを保っている。いろんな価値観の間に立たされてもたいしておろおろせずに落着いている、彼の成り立ちの根拠を打ち明けられたような気がした。存在のいちばんベーシックな部分を垣間見ることが出来ると、信頼は全体に波及する。わたしたちは急速に親密になった。
樹の幹で宝物のように光るカブトムシのイメージと、自分が恋をしていたということ。それらがミックスされて、自分のなかに新しい意識が生まれた。靴に関する−−−。
それまでは、靴はいろいろなファッションアイテムのひとつにすぎなかった。かわいいもの、素敵なものを選ぼうとはするけれど、それ以上のものではなかった。しばらくすると靴箱の中で忘れられたまま古びていく。そんな程度もものだった。それが、変わった。
たとえば、古くなるほど愛着の湧くテディ・ベア。子供の頃から一緒にいる犬、。父の書斎にあった美しい装丁の本。手で触れたぶんだけ、大切にしたぶんだけ、すりへって、くたびれて、つややかに、輝いてくるもの。そういうものの集合のなかに靴も加わった。
人間がものを使う。ものの周りを人間といっしょの時間が流れる。使われずに忘れられていても、変わらず周りの時間を呼吸しつづけるもの。そういうものは古びない。人間にもたれかからず自立していく、人間の時間に並行して、ものの側にも時間が流れていく。現実にシンクロした時間の流れの中で彼が虫採りに行きつづけたように。
裸足で踊る。靴をはいて踊る。
それは、どういう状態で地面と触れ合うか。つまり、どういう意識のうえに立ち上がるかという意思の表明だ。踊りやすいかどうかは、基準にならない。ダンスシューズやバレエシューズは、踊り易さを追求していることが、逆に、踊りとはこういうものだと押しつけられているようで好きになれない。フォルムもスリッパか地下足袋のようで、着る物とのバランスがよくない。レオタードのオールインワンなら別だが。
なにを踊るのか、そのことが足元を決定する。そこから、なぜ踊るのかという表現のベーシックの部分が見えてくる。わたしはどこに立っている? ここに立つのは、なぜ? この問いをクリアーにしようとすると自然に足元が限定され、自分がいま、何をはいて、あるいは、はかないで踊るべきなのか、わかる。
裸足でなければならない時期もあった。自立したものとして靴を捉えることが出来るようになってからは、コインローファーとワークブーツが選択肢に加わった。重く、固く、どうみても踊りやすいといえる代物ではない。けれども、これでなくてはならないという思いが踊る身体の中にはっきりとある。
どちらも、黒の皮製で、まるくがっちりしていて、そういえばカブトムシに似ている。