以前どこかで聞いたのだが、東京の夏の過酷さは地球上のワースト5に入る程なのだそうだ。
どこかのもっとすごい砂漠とかジャングルなんかの方が、ずっとずっと厳しいので
は? と思うでしょう。
でも、都市熱と湿度のダブルパンチからくる暮らしにくさは相当なものだと考えていいらしい。
暑くてつらい、熱帯夜で眠れない。こんな自分は軟弱すぎるのではないか、と体力と精神力に自信を無くしかけていたそこのあなた、大丈夫です。この東京の夏を乗り切れば地球上のどこに行っても平気のへいざなのです。高橋尚子選手がすごい高地でトレーニングして、ベルリンマラソンではベストコンディションでないにもかかわらず、すばらしい記録で優勝したことなんかがふと頭を過りますね。そう、わたしたち東京人は過酷な高地トレーニングをしているようなものなのです。
さて、あの来る日も来る日も体温と同じぐらいの気温の中で、生きているだけで精一杯だった日々にくらべて、秋ってなんて楽なんだろうとしみじみ思いませんか。暑くないし、寒くない。我、愛ス、適温ヲ。
夏があまりにもつらいからだと思うけど、毎年、夏から秋への変化を出来るだけ敏感に観察しようとするのが我が家の恒例で、夕食時などに競うように、自分の発見した
小さな秋を発表しあう。
暑中見舞いが残暑見舞いに変わる頃にはどんな夏でもどこかに小さく秋の気配が感じられ、むかしの暦ってすごいなあ、と感心する。昼間どんなに暑くても夜は何とか耐えられる気温になったと思うと、そろそろ虫の声が聞こえてきたりして、けっこう風流だが、「もう夏は終わったね」と勝ち誇ったようにほくそ笑んだりして、風流さも台無しだ。そもそも夏の暑さへの恨めしさから季節を細かく観察しているという時点で風流にはほど遠い。しめしめ、もう秋が55%だとか、そういう感じだもの。
それはさておき、毎年のことだが、定規で線を引いたように明らかに『今日から秋(100%)』という日がある。その日を境に季節は劇的に変わる。
今年は、9月の半ば過ぎにその日がやってきた。昨日とは明らかに季節が違う、秋の第一日目。そんな新鮮ですばらしい日に、うちでは悲しい事件が起った。カブト虫のカブ子がいなくなったのだ。
小さな虫カゴでは可哀想ということになり、大きな観葉植物を鉢ごと金網で囲って、そこにカブ子を放してあった。その囲いを「カブ子ランド」と名付け、観葉植物の幹にしがみついているカブ子を眺めるのが日々の安らぎだった。そんなカブ子がいなくなったのだ。
金網の隙間から外に出たとしても、窓はすべて閉めてあったから、この家の中のどこかに必ずいるはずだ。そう思って目を皿のようにして捜し回った。どこかのちいさな隙間とか、何かの中に入り込んで出られなくなっていたらどうしよう。助け出してやらないと、カブ子が死んでしまう。だが、あまりにも漠然としていてヒントがない。お腹がすいて出てくるかも、と期待したが、昆虫の考えることはわからない。一縷の望みを託して出しておいた昆虫ゼリーも、食べるひとがいないまま表面が乾いてきてしまった。
もしかして観葉植物の鉢の中に潜って冬眠したのでは。いなくなった日はまさに「今日から秋」だったし。しかし、どう希望的観測を交えて観察しても、鉢の土はきちんと平らなままで、誰か潜った形跡がない。
どうしよう、掃除とかしていてカブ子の亡骸を発見!なんてことになったら。
たかが虫? いえいえ、とんでもない!
カブ子が現れないまま、結局、今だに「カブ子ランド」を片付ける気になれず、誰もいない「ランド」が寂しさを誘う、秋深し。
余談だが、先日、世田道を歩いていたら「カブトムシの店 KABU 、この先」という小さな看板が、妙に低い目線に取り付けてあった。きっとすごいカブト虫好きのオーナーとかが居るんだろう。しかし、カブ子がいない今となっては、カブト虫好きのオーナーと語り合ってもあまりに実りない。
こんなふうにしてわたしの秋は始まった。