Videocamera
97年に発表した「FOUR SICK GIRLS」というシリーズは、いわばやりたいことは"何でもやっちゃおう"というコンセプト(?)の作品で、結果的にオブジェやインスタレーション、スライド、ビデオなどがかなりのウエイトを占めながら身体と共存していくかっこうになった。いわゆる"ダンス通"のひとからは、もっと踊りで見せてほしい、身体で勝負してこそのダンス、みたいな意見もあったようだが、私じしんは「とにかくやりたいものを創るだけ」という気持ち以外に原動力は無く、誰に何といわれても創ることに夢中で必至だったわけなのだけれど。
シリーズを終えて思い返してみると、あれほど身体以外の要素を取り込んで、身体にとって不自由な状態さえ意図的につくっていったことの理由は、私の個人的な問題というより、もうちょっと社会的なレベルに近いところにあるような気がする。身体ひとつを空間に置いて、そこから出現するエネルギーを通して見る人と交感しあう、そういった根源的なちからを人間の身体は与えられているというのがダンスの基本的な価値観だとして、確かに私じしんそういうことに対してある確信を持ってはいるけれど、同時に「そんなことを言ってる場合じゃないんじゃないの?」というのも、またリアルな実感なのだ。自分の日常生活はそれ程ハイテクでもないし、けっこうアナログなスタイルだと思うけれど、それでもやっぱり、人間がここにいて、空気を吸って、そして吐き出すという、それだけで「自分はいまここに確かに生きている」と感じることができるような実感としての身体感覚は確実に希薄になってきていると思う。「身体」あってこそ導きだされる実感が、すごいいきおいで透明になってきていると思う。そして、身体という実線が点線に薄れていくなか、点々の中から見えてくるのは「魂」とか「心」というよりも、「思考」や「マニュアル」みたいなタイプのものだという気がする。このような感覚が的を得ていようといまいと、感じてしまったからには、身体への絶対的な信頼感を正面から提示して安心しているわけにはいかない。力なくあやうい身体、居場所を失った身体、さまざまな"もの"(メディア)によって分断された身体−いわば身体の不在を提示することでしか、身体の実在を表現することはできないんじゃないか。身体への信頼感は確かに健康で幸福だけど、それをそのまま追求していても現実の身体感の喪失は回復しないんじゃないか−−−−たぶんこれが、私がダンスをしながらも極端なほどダンス以外の要素にこだわらずにいられなかったことの背景。
で、ビデオカメラ−−−。「FOUR SICK GIRLS」でつくったいろいろなもののなかでビデオ映像が群をぬいておもしろかった。。ビデオカメラは人間の脳の中のイメージをかなりダイレクトに表出できるという意味で脳に直結したツールなんじゃないかと思う。具象と抽象の間をすごい速さで行き来できるし、両者のすれすれのところに意識を固定することもできる。そういう点ではダンスとよく似ているけど、ビデオのおもしろさは脳の中にあるものを身体の外のメディアに完全に置き換えゆだねてしまうところ。ダンスとは別種の客観性のあり方が、まったくクールだ。身体(ダンス)と映像のコラボレーションには、まだまだたくさんの可能性が期待できる。
ところで、先日、自分の作品づくりとは全然別のシチュエーションでビデオカメラのことをしみじみと考える機会が。
ある幼稚園の卒園式でのことなのですが、卒園児が50人くらい。そして、会場ではたぶん40台くらいのビデオカメラがまわっていた。
つまり、ほとんどの家庭で自分の子供の記念日の姿をビデオ撮影しているのです。父兄の座席には空席が目立つのに立ち席(?)はぎゅうぎゅう(座席にすわっていては撮影がしにくい)。当然といえば当然なのだろうけど、ふと、いったいこれはどういう事体なのだろう、と思わずにいられなかったった。だって、お父さんは大切な我が子の姿をほとんどファンダーか液晶画面ごしに見つめているのだから。子供だけでなく親にとってもそこに出席することが大切なはずのセレモニーをカメラを通して体験する親と、自分の人生の記録を動く映像で保存しながら成長していく子どもたち。思い出の映像は現実をリアルに克明にうつしだし、セピアに色褪せることもなく、だから、そこには、美しい記憶ちがいや自分勝手な愛すべき強調もはいりこむ余地がなく。
「思い出」というもっとも主観的で個的な感性のあり方もこの子どもたちがおとなにあるころにはずいぶん様子が変っていくのかもしれない。