最近みたもののなかで一番印象に残ったのは、長野オリンピックでのタラ・リピンスキーのフィギアスケート。わたしが彼女について知っているのは国籍と年令くらい。個人史のなかでどんな思いを持ってオリンピックに臨んでいるかみたいなことは何も知らないし、また、知りたいという思いが湧くすきを与えないほど演技(競技?)の中で彼女は完結していた。タラ・リピンスキーが圧倒的なのは、スケートをしている時の彼女が、スケートすることの喜びそのものとして存在しているということだ。野原を走る小鹿のような、風に乗って飛ぶカモメのような、どんな生き物もきっと持っているにちがいない喜びに満ちた一瞬をそこに出現させていたということ。これは、どんな表現をも意匠をもつきぬけている。くらべようがない。「表現力」という基準で考えると、彼女のスケートは何を表現しても"タラの喜び"になってしまうから、ミシェル・クワンと比較して云々されてもしかたがないのかもしれない。けれど、喜びそのものを体現してそこに提示してみせるということが、どんなにまれで貴重なことであるか、わたしたちは無意識のうちに知っている。だからこそ、彼女がそのプログラムで何を表現しようとしているのかということなど飛びこえて、彼女と一緒に回転し飛び心をふるわせたんだと思う。
あの4分間は"天からの贈りもの"だ。何のエピソードも後日談も必要としない、目の前のリアルな現実だけで満足することのできる、完結した一度きりでいい、そういうタイプの贈りものだ。
ダンスをやっている人ならたぶん一度は感じたことがあるであろう問題意識みたいなものがあって、それは、たとえば、こんなふうに言えるもの----小さい子どもが日曜日にお父さんとお母さんに連れられておでかけする時に2人の腕にびらさがって嬉しさのあまり飛び跳ねてる、あの体の動きほどの真実が自分の踊りの身体のうちにあるのだろうか----。タラ・リピンスキーのスケートのことを考えていたら、久しぶりにこんなと ころに行きついてしまった。答えがあるようで決して決着のつかないこのことについて考えることで、動きの良心とでもいえるものに立ちもどっているのだとしたら、答え自体必要のないことなのかもしれないけれど。それにしても「表現」って何なのだろう。人間はなぜ「表現」しようとするのだろう。確かなのは、生き物なら誰でも感応せずにいられないタイプのプリミティブな感動が、あの氷上の4分間のなかにあったということ。