KAHOKAHOU

2009年10月13日(火)*ダンス

 やっぱり倒れました。仕事から帰ったらもう限界で。加減したつもりでも結局は疲れてたってことですね。こういう時って、全身の細胞のひとつひとつが生命の危機と戦っているって感じがする。大げさだと思われるだろうけど。何か食べるべきだとわかっていても食べる力がないし(食欲はあってもね)、声もでないし、気力はあるのに体がともなわないんだよなあ。この体と気が分離したバラバラの感じ、けっこう興味深いです。体とともにいる自分が体から抜け出して体を眺めているけど、体は自分でもあるので、眺めている自分と眺められている自分が同時にいて、もしかして本来、存在ってこういうものなんじゃないかって気もする。

2009年10月12日(祝)*ダンス

 チビコ終了しました。わたしの失敗も、スタッフの失敗も、チビコの失敗も、いろいろあったけど、とにかくみんながんばっていい時間を過ごせたので、よかったことであるよ。昨年は、あまりの疲労で翌日倒れ、回復に数日かかったけど、今年は加減がわかったっていうか、明日は倒れません。仕事だし。
腰痛チビコも無事にソロを踊ることができ、でも、ゲネの方が出来はぜんぜん良く、性格的なものもあるんだろうけど、本番で出来のいい子は練習量が多い子みたいです。たとえ練習でそれほど上手になったように見えていなくても、本番でぐんと成長したりする。本番の緊張を支えるのは一生懸命練習したという事実から来る自信なのかも。あ、そうか、これが「やるだけのことはやった」というやつか。
インフルチビコは、もうすっかり熱も下がり、昨日今日と退屈のあまり外で遊んだりしていたそうで、でも、熱が下がってから48時間経たないと人に接触してはいけないという決まりがあるそうで、うんうん唸って寝ているならまだあきらめもつくけど、本人も辛かっただろうね。でも、素晴らしいのがチビコのお母さんで、以前、発表会当日に水疱瘡を発症して出演を断念した子がいるんだけど、今回のことでその子の気持ちがわかったね、ひとの気持ちがわかるようになってよかったね、とチビコに言ったそうです。えらい。

2009年10月10日(土)*ダンス

 発表会目前リハーサル。が、チビコがばたばたと発熱。3人もっ。ひとりは新型インフル。ほんとうにがんばってレッスンしていた子だけに、そして、小学3年生のチビコにしてはなかなかの雰囲気で踊る子だけに、無念です。チビコ本人もおうちでナミダだったそうで、残念すぎることであるよ。あとのチビコはまだインフルかどうかわからないんだけど、うちひとりは、幼稚園児のクラスを引っぱって行くような子なので、これもまた無念。本番まで後2日。これ以上発熱チビコが出ませんように。みんな発表会をほんとうに楽しみにしているので、辛い思いをするチビコがもう増えませんように。

2009年10月08日(木)*ダンス

 台風のおかげで仕事が休みになり、チビコの小物作り。リボンやら髪飾りやら、たくさん作ってクラクラ。一日でぜんぶ作ろうとするからいけないんだけど、今となっては一日でぜんぶ作るしかない。8月31日の夏休みの宿題って感じ。朝から夜の大人のクラスの直前まで作り続け、なんとか主立ったものは完成。まだ2、3残っているけど、これは明日で何とかなりそう。
大人クラスは、それぞれ自作のソロを踊りますが、けっこうまとまってきました。みんな心がキレイだよね。この心のキレイさはセンセイ(オレです)譲り。というわけではなく、センセイは踊っている時はけっこうワルモノだったりもするので、あ、でも、ワルモノの心はキレイではないという法則はないので‥‥ん?言ってること変ですか?ともかく、ひとが自分の表現したいことに誠実に向き合っているのは、ほんとうにいいものです。こういうふうに踊るひとがもっと増えるといいのにな。

2009年10月07日(水)*ダンス

 腰痛がやっと治ったチビコが、先週は左足の小指の関節を痛め、今週は風邪。群舞の振り付けを覚えるために、今日、特別に時間をとってあったのに、当の本人は欠席で一緒に同じ踊りに出るチビコたちだけが元気良くレッスン。お休みもしないで振りもわかっているこの子たちばかりが上達し、世の中ってこんなもんだよなあ。新型インフルエンザは急速に蔓延しつつあるみたいで、学年閉鎖になった小学校も。うちのチビコも心配です。腰痛チビコはインフルエンザではなさそうなので、体調が回復すれば発表会は出られそうだけど、もう振りを覚える時間がなくなる。でも、気をもんでも仕方がないですね。すべてが本人次第。体調も、やる気も。厳しいようだけど、世の中ってそういうもんだよなあ。

2009年10月05日(月)*ダンス

 今年こそ準備万端で、と思っていた発表会ですが、気がついたら本番までもう一週間じゃないの。劇場との打ち合わせも、スタッフとの打ち合わせも、プログラム印刷も、押せ押せすぎ。あ、踊りも。長編ダンスシアター『イリスの夢』は、わたしの中では出来てるんだけど、まだチビコが理解してないシーンが。そして、全体的にまだ覚えてないみたいだし。あと、髪飾りなどの小物もぜんぜん製作できてないっ。とはいえ、それほど怠けていた自覚もないので、やっぱ、やることが予測を超えていっぱいあるってことで。とにかく、明日で普通のレッスンは最後なので、イリスを完成させ、踊り面の不安を出来るかぎり取り去らなくては。だいじょうぶなのかなぁぁぁぁ。

2009年10月02日(金)*ダンス

 筋膜性の腰痛で9月いっぱい休んでいたチビコが復活し、本人は当然のように発表会に出るつもりだし、予定していたソロも踊るつもりなので、今日はイレギュラーのレッスン。ソロは腰に負担がかからないように配慮し振りを全部作り直す。腰痛だけでなく、ちょっとピルエットさせただけで足首を痛めるような子なので、子どもの好むリズミカルな速い動きは使わず、じっとポーズになったり、2番プリエになったりで、本人的には「地味だ」と不満だったみたいで、「側転がしたい」とかぐずぐず言ってましたが、最後まで振りを通してみると、覚えるのも踊りこなすのも難しかったみたいで、だんだん神妙な顔になっちゃって。モデルにでもなれそうな美人で、まだ小学3年生なのに身長150センチ、足は長く体形もスリム。でも、体が極端に固く、関節の可動域も狭く、筋力も弱い。ダンス向きじゃない身体条件。でもダンスが好きで、それなら毎日ストレッチをしなさい、というと、「してるもん」。毎日ストレッチしてこんなに変化のない体ってどうしたらいいんだろうか。好きで、感覚も悪くないので、体の条件さえもう少し良くなれば、けっこう踊れるようにしてあげられるんだけどなあ。

2009年09月22日(火)*ダンス

 朝から1日チビコ。今日って案外暑かったのかしら。気がついたら朦朧としていて、軽く熱中症だったみたい。先日、近所の家からレッスンの音がうるさいと苦情が来て以来、音はかなりしぼっているけど、大勢のチビコ相手に静かなレッスンなどあり得ないので、せめて窓を全開にしていないというところでこちらの誠意をみせるしかないかなと窓を半分しか開けないことにしていて、酷暑の時期も過ぎたのでなんとか大丈夫と思っていましたが、いくらなんでも様子がおかしいと不審に思うほど振り付けがはかどらず、どうやら暑さで頭が働いてなかったみたい。今日はホントに、何のひらめきも発見もない作品作りで、これ、作り直さなくちゃ。もう時間がないのにバカバカ自分。

2009年09月15日(火)*ダンス

 先日の磔刑図みたいな靴ズレがようやく完治し、その上、腰もあんまり痛くないので、体が軽く、ものすごく大きく動いて見せることができ、チビコの動きもいいです。でも。チビコだけで踊れるかな、と見本をやめると、とたんにチビコも一気にトーンダウン。ううん、きびしい。そろそろチビコだけで踊れるようになってもらわないとマズいんだけど。それでも、衣装合わせも済み、チビコの気持ちも発表会に向けて盛り上がってきたようで、それぞれが顔を輝かせて踊っているのが素晴らしい。ダンスシアター『イリスの夢』は、先日の復習に終始し、ほとんど進まず。まだチェロの静かで大人びた曲とラストの天使のような女の子ボーカルの曲が手つかずで、間に合うのかだんだん不安に。いや、絶対間に合わせるし、チビコが「やって良かった!」と思うようないい作品にしよう。来月の今頃は、もう発表会も終わり、1年でいちばんほっとしてゆっくりしているだろうと思うと、夢のような懐かしいような妙な気分。

2009年09月13日(日)*ダンス

 朝から一日チビコの衣装を合わせたり、作品作ったりでテンテコマイ。なんか。痩せた気がする。チビコダイエット。っていうか、水飲む暇もないくらいだったので、無理なダイエットってことですな。 今作っているチビコの作品『イリスの夢』は、ぜんぜん子ども向けでない音楽と、生の時間の有限性の中で生きることの意味がテーマで、これをチビコがどう感じるのか甚だ自信がなかったのですが、「長生きの相が出ているって、いわれました」「若い頃だったらそんなの気にもとめなかったけど、この年になってみると案外嬉しいわ」「まだやってみたいことも、行ってみたいところもたくさんあるのに、もうあまり時間がないんだと思うと悲しいし、、、」とかいう、実に子ども向けでないセリフも競って言いたがり、カウントでなく適当な間合いで動きを変化させていく作り方にもどんどんついてくるので、ちょっと驚かされたことであるよ。この作品に出演するチビコは6才から9才。チビコのダンスは子ども向けであるべきである、というのは大人の思い込みで、チビコにとっては子ども向けという概念は存在せず、自身の興味がわくかどうかだけなんだろうなあ。

2009年08月28日(金)*ダンス 

 夏も終わりです。と言い切った後でものすごい残暑が来たらどうしよう!今年の夏は、見事にどこにも行かず、家でチビコの振り付けを作ってました。全部で27曲あって、まだ出来てないのが5曲。もうちょっとなのが2曲。チビコが覚えてくれなかったりでうまくいってないのが7曲。まあ、なんとかなる、のかな?とにかく稽古場が倒れそうに暑くないだけで気が楽で、つい楽観的になります。発表会前のこの時期は、毎年、チュチュ地獄なのですが、今年はチュチュ地獄に厭きて、ほとんど既製服で対応することにしちゃったので、さらに気が楽。自分で作るより圧倒的に経費はかさむし、イメージ通りというわけにはいかず、なんとなく既製服特有の既製服な感じですが、チビコに試着させたらものすごく興奮してはしゃいでいたので、それはそれでよかったみたい。最近、膝と腰の状態が微妙に良くなってきたので、ちょっと自分の踊りのことも考えたくなってきているみたいです。

2009年08月13日(木)*ダンス  

チビコの作品、出来たかも!もちろん実際チビコに振り付けるのは、これからだけど、構成が決まって、音が決まって、セリフが決まって、音にたいする割り振りも決まって、大まかな振り付けも決まったので、出来たかも!なわけです。考えてみると先週の土曜日からどこにも出かけず、スーパーに買い物に行くことすらせず、毎日じりじりと作っていたので、まあそろそろ出来ないと、気分的にも保たなかったかも。  夜、久しぶりに部屋を出て、大人のクラス。あまりの暑さに(クーラー無し)、そして、窓を開けたとたん勢いよく飛び込んできた蛾におののいて(蛾が何より恐いオレ)、「今日は、電気をつけないでやります!」いくらなんでもって感じですが、頼るものが自分の内部の感覚だけなのって、ちょっといい経験なのでは。と思いましたが、やってる方は、ひたすらやりにくかったらしい。でも、ピルエットがやけにちゃんとまとまってうまく回れた、という人がいて、おもしろいものだなと思いました。

2009年08月09日(日)*ダンス

 暑いですね。いまさらですが。冷房じゃなくて、除湿なら、と思うけど、除湿を始めて部屋の空気が冷え始めるや否や、猫群がそそくさと不愉快そうに部屋を出て行き、薄暗いお風呂の蓋の上に集合してしかたなさそうに眠り始めるので、ものすごく微妙な気分です。キュウチャンだけは冷房も許容しますが、他の3匹はクーラーが作動すると即座に反応。そして、お風呂で寝ているのに、クーラーを止めるとすぐに察知して戻ってきます。お風呂ではクーラーの冷気はもちろん作動音も聞き取れないので、どうやってわかるんだろ。とりあえず動物ってすごい、ということで片付けておきます。  チビコの作品がどうしても出来ず、それは、個々の小品ではなく小学生のチビコ10人が踊る物語つきの大作なのですが、テーマもぐらぐらで、ちょっとこれ大丈夫なんだろうか。こういう出来なさ具合って、初めてかも。あまりにも煮詰まり、長時間の昼寝をし、夕方から晩酌。おお。マイゴッド。いつまでもぐずぐず考えていたくないので、決着を急ぎたいのですが、どうもチビコの気持ちになって作品が作れない。つうか、物語を骨組みにしようとするところに無理があるのかも。いっそイメージが飛躍を重ねるような構成にしちゃおうかとも思うけど、小学1年生もいるし、3、4、5才のチビコにも見て理解できるものにしたいし、悩みます。

2009年07年21日(火)*ダンス

 朝9時から夕方6時まで、次々にやってくるチビコの振り付け。夏休みの間にだいたいの作品を仕上げておかないと間に合わないので、ほんとは一日にたくさん教えるのは無理なんだけどやむを得ず。オレin振り付け地獄。今日は涼しいな。と思ったら大間違いで、湿度も熱中症の大きな要因なのでした。そして、外が涼しくても風の通らない熱のこもりやすい構造の室内は、蛍光灯をつけているだけでも室温がぐんぐん上昇し、オレin灼熱地獄。水分なんか摂っても何の効果もないのでした。暑さと湿気のせいで最初に全身から汗をかいてしまったら、もう軽い脱水症状になって、体が対処できなくなるみたい。夕方には意識朦朧。こんなことしてたら死んじゃうね。生きてるってことは、必ず日常の中で死と隣り合わせだっていうことだ。ほら、言ってることが変でしょ。レッスンの後、すぐに冷房の効いている部屋に入り少し休んで、なんとか無事帰宅。疲れすぎていて食欲もなく、トウモロコシとビールを摂取してぐったり。こうやって夏バテしていくのでしょうね。

2009年07月20日(月)*ダンス

 今日も怒濤の発表会準備。この数日、自分でもオドロキの勢いで、予算を組み、プログラムもを組み、スケジュールを組み、衣装のプランを立て、作品の振り付けも。あまりにも朝から深夜まで続けているので足元がアブナイ。そして脳も。今、何日とか知らないデス。発表会は10月ですが、とにかく今年はだらだらせずに効率よく仕事を進めよう、と心のなかで思ったその瞬間から休む気がしなくなって。スイッチが入ったって感じですかね。とはいえ、さすがにふらふらしてきたので今日はもうおしまい。気持ちより体の限界の方が早いですね。

2009年07月17日(金)*ダンス

 やっぱりダンスの上手い子っているんだよね。と、今日、チビッコを教えていてつくづく思う。その子は、あきらかに能力が高く、それは、運動能力もだけど、頭もいいし、何より動きに関する感性が飛び抜けて豊かだ。こっちのちょっとした擬音の強さの違いや、アクセントの取り方で、動きがぜんぜんちがってくる。言葉にならないような微妙なニュアンスを体で感じて表現してくる。まさに打てば響く。今までいろんなチビッコを見てきたけど、どんなに一生懸命教えてもぜんぜん伸びない子もいたし、好きで通っているはずなのにそもそもやる気がない子もいるし、自分の教師としての能力や人間としての力が不足しているのではと落ち込むことがしばしばだったけど、うまくいかないのは自分のせいだけではなかったんだなと思えてくる。残酷ないい方だけど、向いてない子もいるってことだ。本人がダンスを好きと思っていても。もしかしたら、かわいいレオタードが好きなのかもしれないし、雰囲気に憧れているだけなのかもしれないし。今日のチビッコは、まだ幼稚園生だけど、気兼ねなく遠慮なくダンスだけで繋がれるし、動きでコミュニケートできるので、ほんとうに楽しい。大切に育てたい逸材です。

2009年07月16日(木)*ダンス

 最近(といってもまだ2日目だけど)、夜1時くらいには寝るようにしていて、すると自然に朝早く目が覚めるからオドロキです。今日なんてね、6時半だよ!
ゴミ出しも余裕だ!
そういえば、昨夜、例の『子鹿のバンビ』などのCDが届き。試聴の際にはバッチリだと思ったアレンジや声質が、実際に通して聴いてみるとどうも違うのです。妙に1本調子だったり、やかましいばかりで可愛くなかったり。あまりにも心の中で暖めすぎた思い出の曲って、イメージが先行し過ぎていて、満足に行き着くことはあり得ないのかもしれません。とはいうものの、なんかもうちょっとイマジネーションが膨らむようなアレンジがあるんじゃないのかなあ残念。
ところで、一緒に買った『ねこふんじゃったの謎』というCDですが、これ予想以上にいいです。いろんな国風にアレンジされた(もしくは実際に各国に取材したものかな?解説読んでみよう)「ねこふんじゃった」がひたすら続くのですが、アルバムとしてすごくよく出来てます。こういうの大好き。なにがどう「謎」なのかは、謎ですが(だから解説読もうよ)、広く親しまれている小曲の持つ包容力の大きさとか、音楽を日常使いのものとして愛し楽しむことの豊かさみたいなことがどーんと表現されています。そもそも音楽は人間の生活の中からうまれたんだもんね!

2009年07月12日(日)*ダンス

 怒濤のチビッコ選曲の日は続く。朝方まで童謡や唱歌などのこどもジャンルのCDを検索していて、へろへろ。
数年前に比べて、わたしたちの世代が懐かしいと感じる「みんなの歌」出身の曲を収録したCDが増えていました。某住宅メーカーが『緑のそよ風』という曲をCMに使ったあたりがきっかけだと思うけど。『緑のそよ風』は、小学生の頃に大好きだった歌で、数年前、チビッコに振り付けたくてしらみつぶしにCDを捜したけど見つからなかったもの。これは「みんなの歌」ではないけど、『めえめえ仔山羊』や『子鹿のバンビ』も、以前はまれに収録されている程度で、しかも歌っている歌手が往年の名童謡歌手で、わたしの求めてるイメージには合わなくて諦めていたけど、今回、望み通りの可愛い歌声のものが見つかって嬉しい。自分のチビコ時代の心の名曲がCDに入るようになってきたということは、CD制作の決定権を握る立場の人たちが同世代になってきたということでしょうね。大人だ!
ところで、あともう1曲、長年捜している曲があり、それは『つゆ玉さんのバレリーナ』というタイトル。小学3年生くらいの時、バレエの発表会で使った曲で、教室の中でもスリムで可愛いルックスの子達が選ばれて水色のチュチュを着て踊ったんですが、おかっぱでぷっくりちゃんだったわたしは、当然選抜に漏れ、確かにわたしってつゆ玉さんのバレリーナってイメージじゃないよなと子どもながらに納得したんですが、歌の可愛さは今でも心に残っていて、うちのチビッコに踊らせたいなと。「ララランララランつゆ玉さん、かわいいかわいいバレリーナ!」と始まるんだけど、当時でも『緑のそよ風』ほどポピュラーではなかったから、もう出会うことはできないのかな。誰か知っていたら教えてください!

2009年07月10日(金)*ダンス

 チビッコの発表会の選曲をしていて、ものすごい名曲を発見。『きのこ』っていうの。「き、き、きのこ!き、き、きのこ!のこのこのこのこ歩いたりしない!」
そして、動かないきのこも雨が降ったあとはニョキニョキと背がのびる、と続き、あ、その伸びる様子の擬音は「るる、るる、るる、るる」です、最後は「きのこは生きてるんだねっ」となるのです。おお。なんと素晴らしい。といっぺんで大好きになり、チビッコに「すごくいい曲なんだよ」と自慢げに紹介したら「知ってる」「知ってる」と口々に言われ‥‥、こども関係の仕事をしているわりにはこどもカルチャーにぜんぜん詳しくないので、あたかも自分が発掘した名曲であるかのように思っていたけど、どうやら誰でも知ってる有名な曲らしかったのでした。どっちかというと最近の曲なので、わたし世代の人は知らないと思うけど。あ、こどもがいたら知ってるのか。とにかくね、衝撃的に可愛くていい曲なんだよ。今いちばんのお気に入りで、つい歌いたくなっちゃう。き、き、きのこ!作詞は、まどみちおさんでした。

2009年07月09日(木)*ダンス


どうしても自分の中に習慣ができてしまうのは、なかなかに仕方のないことなのかな。朝起きたときはこんな感じ、ぎりぎりに仕事場に滑り込んで、仕事はこんな感じ、夜はこんな感じで1日が終わる‥。仕事も勉強も「習慣にして生活の中に組み込めばなんでもない」と、よく親や先生にいわれたような気がするが、習慣になってしまった時点で、体験は、いわゆる予定調和にすり替えられてしまうのではないかと思う。習慣として行う行為の中に日々新しい発見や感動があればいいのだけれど、感動があったとしても、それは、習慣化された感動だったりして、習慣というのは手強いものだ。
自分の生活の中で唯一確実に習慣化していない時間は、大人のためのダンスクラス。2時間の枠のなかで、内容も流れもだいたい決まってはいるけれど、
同じエクササイズでも日によってテーマが異なり、そのテーマ自体、事前に用意しておいたものではなく、その時その瞬間に浮かんでくるもので、たとえば体の技術的な使い方をやっていても、次第に、ダンスにとってというよりは生きているということにおいて核心的な部分に向かって焦点が合っていったりするので、まず自分にとって本当に新鮮な時間だ。教える、とは、すでに知っていることを伝えるのではなく、自分の進む道を一緒に一歩進むようなものだ、と、今のところは思っている。

2009年06月26日(金)*ダンス

 ダンスに分類しているけど、ダンスではなく。職場で小さい子のための絵本の読み聞かせを企画し、読み聞かせの声に合わせてピアノの伴奏をいれているのですが、回を重ねるごとにフラストレーションがたまり、ちょっとしたストレス状態に発展。というのは、自分のピアノの演奏の稚拙さもあるんだけど、語り担当の人とどうも合わないのです。こっちは無音になった間合いとか、音の入るタイミングにどうしてもこだわりたいんだけど、相手はそういう感覚に対する認識がなくて、言ってもわからないし、表現としてのレベルが上がらないのでだんだん厭きてきちゃって。ああ、「ここでちょっとだけ間をとって、声を入れた方が伝わるよね」「ここはピアノをもう少し引っぱってから言葉を入れよう」とか、そういう創り方をしてみたいなあ。コンマ1秒の違いが活きてくるような微妙な違いを感じ取って楽しめる人ってなかなかいないということですかねえ。何度か練習していて気付いたんだけど、練習というものを自分で思い込んだ型に近づくためのものと考えている相手に対して、わたしは型をくずして新しい可能性を探すのが練習だと思っていて、考え方が真逆。まあ、常識的には相手の方がノーマルなのでしょうが、やるたびにいわゆる「予定調和」の世界にはまっていき、どんどん新鮮さが失われていく。新鮮じゃないので創造の神もつかず、もともとピアノなんてろくに弾けないので、何もつかないとただの下手なピアノ伴奏以外の何ものにもなれない。「創造的な即興読み聞かせ」のはずが「ピアノ伴奏つき読み聞かせ」に転落。なんとかしないときついなあ。

2009年06月13日(土)*ダンス

 表現とは、自分自身を出すことだと思いがちだけど、ほんとうは、どれだけ他を受け入れることができるかということの上にしか成り立たないのではないかと思う。自己表現は狭い。好き嫌いのレベルに戻ってくる。
自分が「図」で全体が「地」。図の側の視点だけだと、「自分」は小さく、他に対して対立的だが、地の側から眺めると、包み込まれていて対立はない。それは、自分がなくては得られないけれど、自分に固執していると気付くことも出来ない視点だ。
 そこに立たなければ見えないものを、自分は表現したい。

2009年06月11日(木)*ダンス

 創造的な人が好き。それは、なにか作品を創ることに限定した創造ではなく、ふつうの日常的なことのなかで、慣習にとらわれず、現状をありのままに見てより良い方向に変化改革していく姿勢のこと。そういうことを積極的に楽しむような人は、一緒に仕事をしていてお互いにたかめあえるし、そもそも面白い。時間は常に前に進むという単純な現実を理解してない人は苦手。前回はこうだったとか、それでうまくいかなかったとこぼすだけで前進する気配のない人は、わからない。 時間の中で生きているのになぜ自分も前進しないんだろう。
毎日毎時が新しい。真剣に今に向きあっていくと、何をしていても創造的だ。そしてそれは、新鮮で楽しい。

2009年05月01日(金)*ダンス

 音楽が好き。もちろん好き嫌いはあるけど、それが作者の理念に基づいた表現になっているものならジャンルに関係なく好きだ。たとえば、いろんな火山の火口で採取した音だけを集めたCDとか、高圧線に風が当たって発生するノイズを集めたCDとかも、音として純粋に美しいと思うし、敬意をはらって聴きます。ポピュラーなものも好き。クラシックも、民族音楽も。でも使い捨て感のある量産されたタイプの音は苦手だ。そういう音楽は、たいてい我がままな感じがして、なんでわたしがこいつの我がままを聴いていなきゃいけないんだ、もう耐えられない!と、テレビやラジオを切ることも多い。一人暮らしだからいいけど、もし誰かがいたら、そんなふうにおもむろにスイッチをぶち切る行動のほうがむしろ我がままですけどね。
音楽は好きだけど、音楽をかけずに静かにしているのはもっと好きで、ときどき猫がポリポリを食べたり、チューパをする音を耳にいれながら、こころに焦りもなく頭に無意味な思いをわき上がらせることもなく、からだの中が水面のようにしんと静まるのを見つめて、そこに落ちる光や風を感じるのが、いま、じぶんにとってのダンスです。

2009年04月29日(水)*ダンス

 気持ちよく洗濯をしながら過ごしていたら、古い友人から電話が。たぶん3年ぶりくらいかな。最近どうなの、というので、まあいろいろあったけど人間的にはけっこう成長したかも、と答えたら、「きみの口から成長という言葉を聞くとはね」だって。
近況を訊かれて成長したと答えるのもどうかと思うけど、わたしってそういうふうに見えているんだ。。。わたしの人生のテーマはズバリ「人間的成長」なので、日々まじめに取り組んでいるのですが。どうも、ただ適当に気楽にのほほんと生きていると思われていたみたい。
そういえば、まだ30代の頃、現代美術の企画にソロダンスで参加した時に、同じ企画に出展していたすごくファインアートな感じの彫刻家に、「そのへんのただの女の子かと思っていたけど、踊っているところを見たらそうではないことがわかった」と言われたことがあり、つまり、着ている服とか居ずまいからはとてもまともなアーティストとは思えなかったということらしく、本人はいつでもいたって真剣に芸術家であるのですが周囲からはぜんぜんそう思われてないってことですね。ギャップ。
電話の友人も、知る人ぞ知る的な渋いタイプのダンサーなので、やっぱり芸術家タイプの人から見ると、軽薄に見えるってことですかね。
自分の意識と周囲の判断と、どっちが正しいかというと、自分が勘違いしている部分も多々あるはずなので、まあ五分五分なんでしょうけど。そして、自分がどう見えているのかというのは、どうでもいいことであり、同時に、きちんと把握している方がいいことでもある。ニャー。

2009年04月28日(火)*ダンス

 もくもくとした新緑に涙が出る。ある距離感をもった関係だったので普段意識することは少なかったけど、自分が亡くなった方にどれほど信頼感を持っていたのか、あらためて実感する。昨年の春にワークショップの企画を相談したら、ワークショプだけでなくソロもやりなさいといってくれたのはその方で、その言葉が、自分が舞台に出るのはもういいかなと思いかけていた気持ちをフッと切り替えてくれたんだった。
食欲もないし胃も痛い、と弱々しくチビッコダンスに行くが、今日は、入会希望の強烈なチビッコがふたりもいて、ふらふらとしている場合ではないのでした。やんちゃで無邪気な4才(女子)と集団行動を理解していない3才(男子)。やんちゃで無邪気な女子はたぶん大丈夫だけど、男の子の方は難しいかも。初のボーイズというのはいいとして、たぶん彼の中にはまだ踊るという概念がない。レッスン中に走り回ったり大声を出したり、ちょっと心配なかんじだ。お母さまはすごく熱心で、息子のためにはやらせてみたいけど皆さんにご迷惑では、というスタンス。たしかにご迷惑なほどの騒ぎぶりなのですが、彼の成長のためにはこういう場があったほうがいいのではと感じるものがあったので、いちおう様子をみることに。でも、ちゃんと指導できる自信があるわけではなく。まだ3才なのでなんともいえないけど、もしかしたら何か発達障害的なものがあるのかもしれない。他の子どもとのバランスを考えるとけっこう難しいけど、断っちゃったらこの子の成長の可能性が狭めることになるのかもしれないし。ただ、確実にセンセイは普段の100倍は疲れるので、辛いところだ。

2009年04月27日(月)*ダンス

 ソロで踊りはじめた若い頃からお世話になっていた方が先日亡くなったと知った。流行に流されず、時代に群れず、本当に良いものをじっくりと創るという姿勢を貫いた方で、作品をいつも観てもらえるわけではなかったけど、観られて恥ずかしくないものを創っていたいといつも思っていた。一年間闘病されていたというのも知らなかった。しばらく自分が踊ることから離れていたので接点がなかったせいもあるだろうけど、ご病気のことは誰にも話さなかったのではないかと思う。ご本人の遺志でご家族だけで静かにお見送りをしたというのも、深い教養と見識を持ちながら裏方に徹してご自分が前に出ることは決してなさらなかった生き方にふさわしい。
わたしが免許を取った時に、何に乗るの?と訊かれて、たぶんパオと答えたら、「カンゾウさんにパオはすごく似合うと思うし、わたしもパオはいちばん好きな車なの」と嬉しそうに言ってくれて、パオをピンポイントで「一番好き」と言う人が珍しかったのと、20年余りのおつきあいのなかでダンスに関係のないプライベートなことを話したのはそれが初めてだったのもあって、あの時の会話は今でも時々思い出す。
もういらっしゃらないということをわかるには、時間がかかりそうだ。

2009年03月25日(水)*ダンス

 学生の頃、友達に「どんな人になりたいか」と訊かれ、「自分の言葉で話せる人になりたい」と言ったらキョトンとされました。本で読んだ知識や誰かが言った言葉を、自分の心にはめ込むのでなく、本当に自分が感じてわかったことで自分の心を形成していくような人間になりたいという意味だったんですが、ピンと来ないみたいでした。
読んだり聞いたりしてわかることというのは、情報を処理し編集するようなもので、自分の内側から実感として湧きあがってきたことはぜんぜん違う。本当に大切にすべきなのは、自分の実感としてわかったことだと思う。そういえば、その頃書いていた卒論でも、ほんとうにわかるということの大切さを結論にしたら、そんなのは個人の体験に過ぎない、ときびしく批判されました。シュタイナーがテーマだったので、そんなに批判されるようなことじゃないと思ったけど(神秘主義とかって個人の体験なくしては成り立たないものでしょ)、ぜんぜんNGってことみたいでした。
ともかく、実感としてわかったことだけで自分を構成しようという思いは、今でも変わらないです。だからダンスなのかもしれません。

2009年02月20日(金)*ダンス

 金曜日のクラスに来ているチビッコが、先週教えたシェネの首の動きをばっちりマスターしていて、感覚の良さに驚かされました。まだ3才なのに。わたしも、幼稚園の時にシェネの首の使い方を教わって「なーるほど!」と感心して一生懸命練習したのを思い出しました。
なにかがピンと来た瞬間っていいんだよね。世界がピカッと開けるみたいで。ダンスの良さは、それが全身に来るってことかな。

2009年02月06日(金)*ダンス

 あまりにも日射しが春だったので、今日のチビッコのレッスンの即興は「お花のダンス」。種から芽が出て花が咲いて、そこにちょうちょがやってくるというお話を自由に。曲は、ウィンナワルツ。このメンバーで、こんな光の中で、こんなふうに踊ることはもう2度とないんだろうな。それは、今日だけのことじゃなく、いつでも同じ時は2度とないんだけどね。
修理から戻ったばかりのクルマの調子が悪く、あり得ないような摩擦音がエンジンルームの右下で響く。何かの部品が外れかけていて、緩んだ部品がどこかにこすれているみたい。もしかしてタイヤが外れるのでは。見てもらうと、直したはずのベアリングがちゃんととまってなくて完全にずれてしまっているとか。「タイヤが外れることはないんだけど」と説明されましたが、音のイメージだけで想像したことがほぼ当たっていたようです。で、クルマは再び修理へ。代車にもすっかり慣れました。

2009年02月05日(木)*ダンス

 チビッコのクラスを2コマ増設したのですが、思ったより生徒が集まらず、今のところ個人レッスンになったりしています。もっと人数が増えないと困るのですが、実は、1人の生徒に向けて教えるのってすごく面白かったりします。その子に適したやり方でイメージが伝えられるし、特定の個人に向けて発すると具体的になりやすい。イメージや感覚って、抽象的なものではなく、すごく具体的で現実的なものなのです。チビッコの方も真剣になるし。いつものクラスだと、ふざける子や集中力の切れる子への対応に、いかに力を費やしていたのか、よくわかる。全員を厭きさせないで惹き付けるのがプロというものなのでしょうが、4才5才のチビッコだとレッスン以前のところでムズカシイ子もいて、ダンス以前のところで苦労してしまう。この個人レッスンの質を多人数のクラスに持ち込めたらなあ。っていうか、実際問題として、この先ずっと個人レッスンでは困っちゃうので、多人数でも個人レッスン的にできるこつを見つけておかないとね。

2009年01月10日(土)*ダンス

 この先、自分はいっさい習慣というものを持たない人生を送っていきたい。自分が何をし、何を感じ、どういう局面にいるのか、いつもはっきり客観的に見て行動していきたい。結果的に毎日同じ行動をとることもあるだろうけど、はっきりした自覚のもとにとる行動と、あらかじめインプットされた習慣的な行動は別物だ。
自分をいつも覚めた目で見ること。たとえば、お風呂に入って、「温かい」と思うんだけど、それはお湯が温かいのであって、自分がお湯なのではない。あたりまえのことだけど、これを感情面に置き換えると、自分がお湯になってしまうことが多くて、たとえば、悲しいことに出会ったとき、簡単に自分自身が悲しみそのものになってしまう。でも、そこで客観的に自分を見れば、悲しみはあくまで自分とは別のもので、「わたしは悲しい」のではなく、悲しいと感じている自分がいるだけだ。本当の自由とは、感情のままに泣いたり笑ったりすることではなくて、やってきては去っていくどんな感情にも占領されず、どんな習慣にもとらわれないこころの状態。
その先がどうなるのか、まだわかりませんが、いま、わたしが踊りで実践していきたいのはこれです。習慣にも感情にも支配されない自由、その表現。

2008年12月24日(水)*ダンス

 ワークショップの発表会公演『わたしの立つ場所』、終わりました!
観に来てくれたみなさん、どうもありがとうございました!
先週の稽古の段階では、兆しは見えても現実どうなるのかなあと思ってたけど、すごくいい公演ができました。
個性を最大に活かすということを考えて創っていくと、人ってこんなに力を発揮するんだと、あらためて驚かされました。作品がかたちになっていった最後の数日の踊り手の変化には、目を見張るものがあり、ほんの一週間前には、動きのあらが目について、これではまずいと思っていたのが、リハに入ってからは殻を脱ぎ捨てたみたいに踊りのからだになっていて、人がこんなふうに劇的に変化し成長する場に立ち会えて、本当に嬉しかった。
一人きりのワークショプということで、正直キビシイ現実はあったけど、貴重な経験でした。ありがとう、キッド。がんばってよかったね、ゆきさん。
何かが始まり育つようにと願いを込めてつけたワークショップのタイトル『ここから始まる』。タイトル通りに、「それ」は始まっているみたい。育てなくては。

2008年12月23日(火)*ダンス

 ワークショップの公演で配るあいさつ文を書くつもりが、あいさつっていうか「ちゃんとダンスのことを書けよ」というこころの声が聞こえ。考えてることをちゃんと文にするって、にゃんてむずかしいんでしょう。にゃんて、とか言ってる場合じゃないし。
夕食後に書きはじめて、できたのが3時。にゃんと。明け方の。にゃんとって言ってる場合じゃないって。
明日(っていうか今日)うまくいきますように。今回、作り込んだやりかたをしていないのですが、それは、なぜかそういうことが必要ないと思ったからで、しかし、みっちりと考えるのが本来の自分の性質だとすると人が変わったような余白の多さで、ぜんぜん焦ってもいないし、きりきりもしていないし、こういう感じは今までにない。これがいいことなのか、悪いことなのか、明日の出来を見ればわかるんだけど、この落ち着き、にゃんなのでしょうか?

2008年12月02日(火)*ダンス

 わたしにとっては週でいちばんハードで、よって、ちょっと気重な火曜日ですが、チビッコにとってはわくわくうきうきの火曜日で、「まいにち家で踊っています」「火曜日をキラキラな感じで楽しみにしています」などとおかあさん方から聞かされると、けっこう焦る。やばい、もっと楽しく素敵なダンスの時間にしなくては?。
以前に比べてだいぶリラックスして教えることができるようになったけど、やっぱりまだ既成概念みたいなものに捕われているところがあるようで、自分のこころのなかの自由度みたいなものがもっと上がってもいいような気がする。何を教えたいかというと、それはダンスのなかで体験できる絶対的な自由と個の尊厳みたいなことで、それを体験するには技術や集中力などの基本的な力は必要だけど、別に順序が決まってるわけじゃないからそういうものが揃ってからじゃないとダメというわけではなく、ダンスを楽しみにするキラキラした思いがあるのが何より大切なこと。つまりチビッコはみんな準備オッケーなわけだ。
夜になってからずっと重低音のノイズが聴こえていて、これが自分の耳鳴りなのかどこかの部屋で何かの家電が発している音なのかわからない。今日は猫もみんな早くから寝てしまって、みんなが走ったり遊んだりしているときは、こういうノイズも吸収してくれているのかも知れない。

2008年11月24日(月)*ダンス

 ひさびさに、どひゃーん、です。
ワークショップの公演の作品の選曲ができなくて、どうしてもぴったりの感じが浮かばなくて、もうどうしたものかと連日やっていて、そういえば昔誰かがサラヴァのベスト盤みたいなCDを自分で選曲してプレゼントしてくれたのを思い出し、そのなかにピエール・バルーの音源でいいのがあったような気がして探してみたら、つい2、3日前にCDの棚に見かけたはずなのにどうしても見つからず、なかば意地になってCD-Rを片っ端から出していたら、4枚組の聴いたことのないCD-Rが出てきて、かつての同居人のが引っ越しの時に混ざっちゃったのかも、と思いながら何気に開けてみると、確かに同居人の友人が焼いたCDみたいなんだけど、4枚の中の1枚だけが別メーカーのCD-Rで、書き込んであるタイトルの文字になんか見覚えがあるんだよね。
 もう、えっまさか!って感じ。カワサキさんが焼いてくれたCDが今ごろ出てくるなんて。それにしても、どうしてこんなところに紛れ込んでいたんだろう。しかも、これ、もらったのも覚えてないし、一度も聴いてない。カワサキさんからもらった音源で聴かないのがあったということ自体、信じられないんだけど、それはともかく、セザリア・エヴォラ。Die Pratzeで公演をやってた頃にもらったものかも。いつも本番当日に「あ、客入れのBGM忘れちゃった!」と叫ぶと、カワサキさんが「いつもじゃん」みたいな顔して適当に選んでかけてくれていて、そのころカワサキさんが選んでいたBGMの感じに似ている。あのころは、カワサキさんも最後の頃に比べるとまだ具合が良くて、けっこう自分の好きな音源を焼いてくれていたのでした。
 亡くなってそろそろ3年、あんなふうに一緒に作品を作ることのできる相手はなかなか見つからず。自分の作品を作るチャンスもあまりないわたしを励ましている、というわけではなく、なーんだ、最近ろくに音楽も聴いてないの?まずしいねえ、と軽くいじられているような。
 ちなみに、セザリア・エヴォラのアルバムを調べてみたら、いちばん新しいのは2006年7月のリリース。これは聴けなかったのね、カワサキさん。

2008年11月20日(木)*ダンス

 ワークショプの参加者がひとりなので、始まった当初は、公演は出来ないんじゃないかなと思ったけど、そもそも公演という発表の場につなげるという企画だし、ダンスのいちばん基本的なところはソロにあるし、ひとりだから公演が出来ないんじゃ話にならないよな、と思い直し、参加のひとの個人的にリアルな思いを普遍的なものに拡げていくかたちで作品を創っています。
えっ、ひとり!それでもやるの!的な反応はノーマルなのでしょうが、こちらにしてみれば「ひとりですけど、それが何か」。そのくらいの気持ちじゃないとやってられないよね。
いちばん悩んでいるのが、どうしたらこの人を活かしきれるかという点。
あと3回のワークショップで、技術的な面が爆発的に向上することは、普通に考えて、ないでしょう。その人の中心にぴったりとはまるような何かを探り当てて、ぴったりの形で提示できれば、作品として成立するかも。今のところ、わりかしけっこう近づいていると思うんだけど、まだ目の覚めるよな何かにぶつからないので、残りの3回がよけいに貴重です。
公演は、12月24日の夜。クリスマスイブだぁ。

2008年11月05日(水)*ダンス

 ううっ胃が。と思いながらキッドのワークショップに向かう途中、さらに胃が痛くなる状況に。なんか変だな、と思ったら、クルマのメーターががいつもではあり得ないくらい熱くなっていて、これってもしかして今からオーバーヒートして止まっちゃうかもしれないってことなのでは。
と、吐きそうなくらい不安になるが、時間もないし、見ず知らずのスタンドに寄って相談する勇気もなく、そのままそっと走り続けてキッドへ。結局、帰りも同じ状態で吐きそうになりながら何とか家まで。半年ほど前に、いきなり道の真ん中でエンジンが止まった時もそうだったけど、あまりにも恐いと適切な判断が出来なくなって、とりあえずなんとかその場をやり過ごそうとするみたい。冷静に考えれば、そのほうがよけいに危ないのに。また修理で、悪くすると廃車の可能性も。ああ、パオくん。ううっ胃が。
今回のワークショップでは、動きをどう構築していくかということを中心にやっていて、自分がいつもやっているやり方を提案しながら、身体が感じる感覚に気付くようなアドバイスをするだけで、とくにこれが正しい型というものは想定していません。あらためて考えると、こういうやり方ってぜんぜん一般的じゃないのでした。ダンスは自由な表現だといっても、かなりかっちりとした「how toもの」なわけで(だからダンス教室が成立するんだよね)、how toを求める人にhow toを提示しないというのは、ラーメン屋でジュースを出すようなものでしょう。ジュースなんか出してるから流行らないんだぁ。
とはいうものの、うまく相手の心の中心に当たれば、舞踊の真髄に繋がる何かを体験する可能性がある(と思っている)ので、どんなに流行らなくても、このやり方を続けてみようと思うわけです。

2008年10月29日(水)*ダンス

 わたしの生徒のひとりに、背が高くてすごくきれいなんだけど猫背な子がいいて、この間の発表会を見た人から、その子について「頭の上に本でも乗せる練習をさせた方がいいんじゃない?」といわれ、かちんと来る。姿勢を正す指導をしているのは云うまでもなく、でも、その子の場合(っていうか、誰の場合でもそうなんだけど)背中の丸さは自信の無さから来ているので、堂々と自分を主張し解放できるようになれば解決するはずだから、頭に本を乗せて練習させるつもりなんか毛頭ない。
そもそも、頭に本を乗せて姿勢が良くなるのなんか、わたしはぜんぜん好きじゃない。背筋は、内側から伸び上がるようないきいきした力で伸びるべきだ。本が落ちるからまっすぐ、じゃなく、たとえば、天にとどきたいからまっすぐ。そういうのが好き。

2008年10月01日(水)*ダンス

 何かを知るのに、一般的な方法なんていうものは、ない。「知るべき何か」は、実に普遍的なものなのだけれど、そこに至るにはひとりひとりが自分で独自の道を見つけて自分の足で歩かなければならない。
たとえば、バレエのテクニックのなかにその「道」を見つける人もいれば、そこにテクニック以外の何ものも見いださない人もいる。
そのことに気付けばいいが、見いだしていないことに気付かずテクニックに拘泥してしまったら、ちょっとまずい。どこにも繋がらないテクニックの海で泳ぐだけになってしまうから。そして、そんな中にも心地よい疲労や達成感があるということが、もっとまずい。
マニュアルというものが一般的になったことが、いろんなまずいことの大本の原因なのかも。「やり方」って、ないんだよね。あるのは、「自分のやり方」。

2008年09月23日(火)*ダンス

 チビッコダンス。休日なので、お弁当持ちで朝から集合。つかれたぁ。
ソロの指導をしていて、こちらがどこまであきらめずに伝えようとするかで、チビッコの受け止め方が違ってくることに改めて驚かされる。子どもだし、このくらいでいいや、と思ってしまうと、このくらいになる。こういうふうに踊ってほしいというところを真剣に伝えようとすると、その内容がわからなくても熱意は伝わって、チビッコも一生懸命になる。なんかよくわからないけど、この『森のくまさん』、すごく大事なことみたい、って感じになる。そういう、こちらの熱意みたいなことをまとめて感じ取っていく姿を見ていると、人間の感覚って、思っているよりずっと繊細で鋭く確かなのでは、と思う。
小学生といっても、まだダンスを初めて2年経たない子もいるので、そういう子にはちょっと荷が重いんだけど、上手下手はあっても、どの子もとても真剣だ。踊るということは、ひとつの世界を創るということ。9人のチビッコが、それぞれ自分の星でも創るように、ソロの中で輝いてほしい。

2008年09月20日(土)*ダンス

 台風一過。を台風一家だと思っていた子どもの頃。サザエさん一家。
今日は、運動会の予定が、昨日の時点ですでに中止が決定。前日にたくさん雨が降るとグランドがぬかるむので使用許可がおりないらしい。広がる青空に、「こういうの、チビッコ納得できるのだろうか」と思うけど、仕方がないね。
運動会が中止になったおかげで、及川さんが主催する「アート・コンファランス」に参加。欠席のお返事をしてあったので、いきなりの登場に「あら、来られないはずではなかったの?」とにっこり微笑む姿もエレガント。
パネラーの青木さんは、及川さんとともにヤン・ファーブルやカントールの招聘に尽力したプロデューサーで、わたくし、高貴高齢者ですから、とおっしゃる上品でエネルギッシュな女性だった。自分が観て、これだ!と信じたものを日本に連れてきたり、日本のパフォーミングアーツを海外に紹介している経験談は、マニュアルなんかにはまとまり得ない個人の力と情熱に溢れていて、感動。
海外がどうこうというのは、今のわたしにはぜんぜん現実的じゃないけど、今いる場所で精一杯生きることしか道を開く手だてはないな。と思う。チビッコの仕事とワークショップ。自分の作品からはずいぶん遠くにいるけど、近づきたいなら発表する場がなくても創ればいい。
電車とバスを乗り継いで1時間以上かけての帰り道、窓から見える風景が現実でないような妙な感じに。自分が今この町に住んでいることさえ、ただの夢のよう。ここに住んでいても、別の場所に住んでいても同じくただの夢だ、などと思う。遠すぎて疲れちゃったのかなあ。

2008年09月16日(火)*ダンス 

 昨日は、予定通り仕事をこなすことでなんとかどん底落ち込み気分から抜け出し、家事ってすごい。そうじや洗濯で、家の中だけじゃなく、自分の入り組んだ心もクリアになる。寄せ植えの整理は出来なかったけど、まあそれは次の休みで。
チビッコの作品に手間取る。小学生全員がソロを踊るのって、けっこう大変なことなのかも。週1回のお稽古では、忘れるスピードも早く、なんどやっても振りがわからなくなっちゃったり、バットマンの足や、スキップのつま先がいくら云っても伸びなかったり、こりゃあどうしたものか。
自分がチビッコの頃はどうしていたんだろう。振り覚えは良かった。いちど習ったものを忘れてしまうということ自体、あり得なかった。膝やつま先も自然に伸びていたように思う。一年生の発表会で踊ったソロの写真とか、すごいピシっとしているもん。たぶん、先生の教え方が違ったんだろうな。わたしの先生は、振り付けのセンスも素晴らしかったし、何ともいえない厳しさを秘めた上品な美人で、チビッコながらもソロの振り付けのときなど、まったく気を抜けない緊張感があった。うーん、天と地。平素、「どひゃーん」とか、「うひゃあ」とか、天然丸出しで自分がチビッコじゃんみたいな態度でいるくせに、振り付けの時だけ、センセイだぞ緊張しろとかいっても無理な話だ。自業自得である。
しかし、センセイになってしまったからには、チビッコを技術的にも向上させる責任がある。みんなが踊りの楽しさや興味を持ちつつ、厳しい練習に耐え、素敵に表現できるように,とにかく生き生きと踊れるように、なんとかしっかり指導しなくては。がんばれオレ。

2008年09月09日(火)*ダンス

 先日の公演を観に来てくれた方から、わたしのダンスについて、「人間の世界にやってきて、いろいろな苦しみを救おうとしている千手観音のようで、涙がでてしまいました」という感想をうかがって、ちょっと驚く。実は、作品のテーマは、仏教の世界観で裏打ちされていたのだけれど、パンフレットでは「パラノイア的」とか「ホムンクルス」といった言葉の方が目立っていたので、こういう感じ方をするお客さんがいるとは思わなかったのです。 
とはいうものの、今回の作品のテーマとは別に、わたし個人のダンスのテーマっていうか、ダンス観を支えるものはこう見えて仏教なので、そういうことが自分が踊ったパートにかなり直接的に出ていたのかもしれません。
おそらく感性がとても敏感な方なのでしょうね。踊る側としては、からだの動き自体を見せたいわけでも、自分を表現したいわけでもなく、そのとき、その「瞬間」から自分が受けとったものを自分を通して外に流すみたいなことなので、こういう感じかたをする人がいると、初めて交流が成立っていうか、とにかく嬉しかったです。

2008年09月07日(日)*ダンス

 きのうはシアターX『花と紛争』の本番。先方の事情で急遽ひきうけた舞台だったので、戸惑うことも多かったけど、結局は自分は自分らしく踊るしかなく、その自分らしさをどう開いていくかというところなんだろうな。
及川さんからのメールに、ご自身の作品について「ひとからどう評価されようと自分の性に合ったこと、やろうと決めたことをやり続けるしかないのだと思う」という決意が述べられていた。真摯だなと思う。
人に支持されないかぎり作り手は孤独の中にいるものだけど、多くの人に支持されたとしても孤独なのかも。わたしの場合、まだ多くの人に支持されたことはないのでわからないが、多くの人に支持された上での孤独っていうのもつらいだろうな。視点を対他に置いている限りは支持されようとされまいと同じことってわけだ。他を無視するとか否定するわけではなく、他に映る姿で自己を知るのではなく、視点を自己に置く。自己からすこし離れ客観的に観る。うーん、なにいってるのかわかりづらいですか。疲れているのかも。
話は変わりますが、きのう、観に来てくれた友人と両国駅前の「さかなや道場」に寄ったのですが、間口の狭さから小さな居酒屋だと思い込んでいたところ、そこは想像をはるかに超えて奥の深い空間で、トイレに立ったらもう2度と戻ってこられないようなスリルいっぱいのテーマパークのような店でした。土俵があるんだよ!

2008年08月24日(日)*ダンス

 夕方から『花と紛争』の稽古。片道2時間は、やはりきつい。都内から遠く離れたこの場所に引っ越す時には、もうあまり中心部へ出かけるつもりは無く、仕事場と家を往復しながら、近所に自分のための稽古場を確保すればいいと思っていたのでした。思えば、電車に長時間乗るのが辛くて、高校を選ぶときから第一条件は「家から近い」。遠くまで出かけなくていいということを常に最優先にしてきたので、今回はかなり珍しい事態。やれば出来るともいえるし、誤算ともいえる。かも。
『花と紛争』、だいぶ全体像が見えてきました。腰痛の関係で、重い荷物を持って移動するのが無理なので、今回、自分の踊りをまったくビデオでチェックしておらず、そこらへんは無責任な感じですが、ソロダンス好きの人には面白い作品になっているような気がします。とくに、及川さんのソロは異様に素晴らしく、その10分間を見るだけでも楽しいかも。
映像がかなりの割合で絡んでくる構成ですが、劇場に入るまでは映像が出せないところが、難点ではあります。額縁状の舞台で映像を使うのってけっこう難しくて、お客さんが同じ平面状にいるパフォーマンス的な空間ならばいい感じの映像も、額縁にはまるだけで全く別物になっちゃうこともある。わたしも、憑かれたように映像とダンスで作品を作っていた時期があるので、映像の迫力が必ずしもダンスを助けないというケースも経験している。映像をバックに踊るという意識じゃなく、なにか空間的な関わりみたいなものが自分のなかにあった方がいいよね。本番まであと2週間。なんとか自分なりに消化して、昇華したいものです。

2008年08月22日(金)*ダンス

  かかとに激痛が!体重をかけると尋常でないほどの痛みで、まるで、トゲでも刺さったかのよう。
ダンスに足の裏のトラブルはつきもの。ひとくちに木の床といっても、木の種類や使われているワックスによって様々な癖があり、慣れない床だと擦り傷や水ぶくれはしょっちゅう。今、稽古に通っているスタジオは、クラシックバレエのお稽古にも使われているので、床面に松やにがしみ込んで生じる独特の粘りがあり、最初の日はまったく無防備だったので、水ぶくれと擦り傷がいっぱいできてしまいましたが、2度目からは用心して当たりを柔らかくしているので、擦り傷も水ぶくれも無し。傷ももうほとんど治ってるのに、この痛み、今度は何だろう。なにかオソロシイ難病か?
念のため、痛みのある部分をじっと観察すると、皮膚の奥の方にごくごく小さい黒い点が透けて見え、、、これ、もしかして、本当に、トゲだったり?なんとか抜き取ると、それは、髪の毛よりも細い、長さ2ミリほどの金属でした。痛いはずだ。針が刺さっていたようなものだもん。
いったい、いつどこでこんなものが(木製のトゲならまだしも、こんなに微細な金属片は普通の生活空間では見かけないので)。はたと思い当たったのは、先日の劇場での稽古。次の芝居の仕込みの合間の空き時間を借りたので、舞台面に小さな金属片が落ちていたりして、「危ないな」と思っていたのでした。そういえば、この痛み、今日始まったものではなく、ここ数日「なんか変だな」とは感じていました。知らない間にだんだん深く刺さっていってたのね。
わたしたちのような踊り手の環境は、けっこう過酷で、シャワーがあることはまれだし、着替える場所が用意されてないくらいは当たり前で、今回のように舞台面に「危険物」があることもしばしば。自分の身は自分で守らないと、、でも、現実的には難しいことが多い。
みんな、ぎりぎりのところで作品を創っているということなんだけど、それだけで済ますわけにはいかない何かが、抜き去ったトゲに替わって心に刺さった気がします。

 

2008年08月18日(月)*ダンス

 なんか毎日疲れている。今日は、職場で、まとめている書類について、自分の考えを説明していて疲れ果て、、。原稿に使われている言葉の曖昧さも気になるし、表現すべきことをずばっと書ききれていないところも気になる。書く側の理念の曖昧さが原因なのではと思うが、そこまで追求することは誰も望んでいないのかもしれず、わたしが書類作りチームに入ったことで作業がややこしくなり進行が遅れたというのは事実だし、余計なことをしているだけなのでは。と、思うと疲れは倍増。そうなんだよね、たしかに理屈っぽいんだよね。でも、せっかく書類を新しくまとめ直すのなら、より良いものを作らなきゃ意味がない。と、やる気を鼓舞するが、今日は疲労の方が勝りました。
それにしても、自分のダンスのプレゼンにもこのくらいの熱意を持てばもう少し活動の幅も広がるのかなあ。とは言うものの、最近、自分のダンスの特徴を述べたり、自分の表現がいかに個性的であるかを強調したりすることにあまり意味を感じなくなってきている。たまにチラシの束なんかを眺めると、すべてのチラシが自分たちの表現をより効果的に訴えようと工夫を凝らしていて、自分にはもうそういう情熱は無いような気がしてくる。うーん、やっぱり疲れているのでしょうか。
でも、自分の表現を、別に必要以上に良いものに見せようというのではなく、ありのままに的確な言葉で説明できるというのは、やはり大切なことで、そういうことが出来るようになるべきなのでしょう。疲れている場合ではないのでした。

 

2008年08月17日(日)*ダンス

 『花と紛争』の稽古で両国のシアターXへ。この劇場に来るの、ほんとに久しぶりだ。思っていたよりも狭く感じるのはなぜでしょう。客席の作り方かな。
最近では自分の作品しかやっていないので、他の作家の方の作品に関ってみて、あらためて自分のことがわかるっていうか、どうも自分は音へのこだわりが大きいようです。どのタイミングでどういうふうに音が聴こえてくるのかが、ものすごく気になる。音と音の間の音の無い時間の役割も、すごく気になる。つまりそういうことに自分が反応し感応して踊っているからだと思うけど、故カワサキさんは「音楽に助けてもらうことを期待しても袖にされることが多いものです」みたいな言い方をしていたけど、まあ、助けてもらおうとまでは思わないけど、いわば音と共演するみたいな感覚なので、曲を途中でフェイドアウトして終わらせることなどにも、単純にとまどう。たぶん自分は音を物質と同じ感覚で捉えている。音が出る瞬間は、空間に何か新しい要素が加わるのだから、単なるきっかけでなく、厳然たる必然性を感じたい。そうでないと、からだが納得しないっていうか。そこらへんがピンと来ないと、踊りのことにまで気が回らない(って、そんなダンサー、あり?)。シーンごとの曲と曲の関係も、なんだかまだつかめず、作品のテーマはある程度理解できていると思うんだけど、自分の中で音と音が繋がらないので作品の全体像がもうひとつぼやけている。まあ、単に飲み込みが悪いだけなのかもしれないんだけど、なんとか自分なりの解決を見いだしたいものです。

 

2008年08月16日(土)*ダンス

 通常の腰痛に加えて筋肉痛が治らず、今日も、立ったり座ったりが困難。アシモくんの方がずっとスムーズ。
フロイトは、「人間には2つの種類しかない。普通に不幸な人々か、病的に不幸な人々か。我々に出来ることは、病的に不幸な人を普通の不幸にすることだけだ」といったそうですが、もし人間が自分の我から自由になることができれば幸福な人々という新種も生まれるのでは。
戦後に育ったわたしたちは、人間は「平等」で「自由」だ、とじゅっぱひとからげに教え込まれていて、しかし、例えば男女平等をうたう際に、男と女は成り立ちが違うという大切な事実に触れられることはなかったし、自由とは何なのかという定義すらされていなかった(ような気がする)。
自分の人生に決定権を持って生きることがすなわち自由だとしたら、それは、あまりにも皮相すぎる。政治的な側面しか捉えていない。
他ならぬ自分自身が自分の心に課している様々な囚われから自由にならないかぎり、本当の自由はない。
ところで、フロイトみたいな仕事をしていたら、毎日毎日、病的に不幸な人々がどんどんやってきて、大変だったろうな。

 

2008年10月08日(水)*ダンス

 なんかチュチュ地獄に突入できず。他の仕事が忙しく、時間がないのもありますが、基本、なまけものです。
 ワークショップ『ここから始まる2』は、もう始まっていて、今日が2回目。参加しているのは、1人。普通だったらあり得ないって気もしますが、キッドもわたしも普通じゃないのか、人数のことはあまり気にせず。自分のワークショップに人が興味を持たないというのは、重く考えるべき現実ですが、たった1人の参加者に1人だからこそ出来る稽古を組み立てようと思ったら、熱中。これ、なかなか無い時間かも。もちろん、ご本人がどう感じ、どう活かすかですが、師というものを持たずにやって来た盲滅法なわたしとしては、こんなふうに誰かが教えてくれるなんて羨ましいなと思う。まあ、経済的には、どうみても赤字で、ほんとに恐ろしいことで、わたしってなんで生活できているのか、つくづくと不思議になります。

2008年08月13日(水)*ダンス

 今日も休みだあ。と、のんびり晩ご飯など食べていたら、メールが来て、それはフローティングの稽古に「少し遅れます」というもので、どひゃーん。
今日、あったんだっけ。すっかり忘れていたのでした。そういえば、おとといあたりから久しぶりに読書三昧で、2冊の本を同時に読み進めていて、誰とも話さず、どこにも行かず、2冊を交互にひたすら読んでいたので、あたまボケているかも。
あわてて家を出て30分くらいの遅刻で稽古場に到着。申し訳ないことであるよ。たぶん読書三昧のせいで脳がインプット脳になっていて、アウトプットへの切り替えができず、稽古の内容もどうもいまいち。申し訳ないことであるよ。日頃、まったく本を読まないのも、理由がないわけではないのでした。
読んでいる本の一冊は中平卓馬の『なぜ、植物図鑑か』で、先日、及川さんの舞台の打ち合わせの時にたまたまこの本の名前が文脈にあがり、じつはわたしは,中平卓馬を非常に好きなのですが、ただ一冊だけ家にある彼の写真集には作家の経歴がなにひとつ載っておらず、日本人の男性でどうやらおじいさんらしいという知識だけで、こんなに有名な写真家とは知らずにただただ写真のものすごさだけで尊敬していたのですが、60年代に書かれたこの写真論を読むと、何とも鋭く時代の中で写真をとらえていて、そうだよなあ、このくらいの人じゃないとあんな写真は撮れないよなあ。
それにしても、何の予備知識もなく、写真というジャンルをそれほど好んでいるわけでもないわたしのような呑気な人間をわずか数枚の写真でとりこにした人の頭の中をかいま見て、自分とのあまりの違いにびっくり。わたしがひとめ見て生涯忘れないと思った写真は、ここまで客観的に物事を見、あいまいさを切り捨てていくことのうえになりたった作品なのでした。

 

2008年08月10日(日)*ダンス

 8日のパフォーマンスが終わり、昨日はほとんど一日倒れてました。なんだろう、この疲れ。たぶんチビッコのイベントからずっと忙しかったので、疲れがたまっていたのでしょうね。それにしても、たまるのは疲れだけでお金はたまらずオーマイゴッド。でも、お金をためるのなら、そもそもダンスなんていうジャンルを選んだこと自体がマチガイであることよオーマイゴッド×2。
さて、おとといのパフォーマンスは。すごくよかったです!
みんなが自分の力をのびのびと出していた。この「のびのびと」というところが大切で、必死にがんばって自分じゃないものになろうとするのではないところが、わたしのワークショップの意図するところであり、特徴なのさ。
みんな、自分が自分であり、同時に、すこしだけ自分以上のものになっていた。ワークショップとしては、最高のかたちだ。それぞれ、つぎのスタートは、そのすこし上に登ったところから始めてくださいね。
次のワークショプの予定など、あらかじめ決めておくのが普通なのだけれど、これはわたしの基本的な欠点なのですが、今やっていることがちゃんと終わって、その感じを噛み締めないと次のことが考えられず、そうやってこれまでの人生いろいろなことを逃してきたのですが、今回も同様で。残念。パフォーマンスの時に次回の予定がわかっていると、もしかして参加する人がいたかもしれないのにね。
キッド的には「神蔵さん次第でキッドはいつからでもいいですよ」ってことなので、あまり間を空けずに10月から第2弾を始めようかと思っていますが、
決まったらサイトで告知しますね。
パフォーマンスが終わって家で倒れていたら、待ち構えたように9月のリハの連絡が入り(つうか、わたしのスケジュールに合わせて待っていてくれたみたい)、今日はこれから赤羽で稽古です。スタジオの名称はアルトー館。アントナン・アルトーですね。若い頃、自分のこころを支えていた「前衛の香り」が、ふたたび。
世間知らずでよく存じませんでしたが、9月の作品の作者であるアルトー館の及川さんは、日本の舞台芸術の前衛的なところで長く活躍している方で、わたしが高校生の頃テレビで観て衝撃を受けたカントールの『死の教室』を日本に呼んできたのも及川さんなのだそうです。!!!!。

 

2008年08月07日(木)*ダンス

 ここ何日か家に帰ると寝るだけの日々だったので、久しぶりに家にいたら、チビクンとギークンがすごく甘えてくる。で、猫のお手入れセットを出すと、みんなが次々と集まり、並んで順番待ち。かわいい。
8月も1週間が過ぎたということは、あと3週間しかなく、今日は立秋なので夏はもう終わりさ。ふふふ。つうことは、9月頭に出来上がってなければならない書類は、もう3週間しか猶予がなく、9月6日本番のダンスの舞台をひとつ引き受けているけれど、そちらの方もあっという間に本番になるってことだ。
ダンスの舞台は、先方の事情で急遽出演することになったのですが、初めて一緒に仕事をする方達なので、勝手がわからずちょっと心配。リハの連絡もまだなく、打ち合わせの時に作品の構成と曲目だけは知らされているので、よけいに心配。なぜなら、かなり構成の細かい作品で、他の出演者の方との絡みもあるし、使用曲はスティーブ・ライヒで、たぶんあまり得意分野ではない。
とりあえず腰痛膝痛だけでも何とかしておきたいけど、たぶん何ともならないって気がするし、大丈夫なのでしょうか自分。
でも、とりあえずは、明日のワークショップのパフォーマンス。今日は夕方から最後の稽古で、照明のサカモトさんとの打ち合わせは、たぶん10時過ぎになっちゃうんだろうな。こういうとき家が遠いと本当に不便。若い頃はキッドに自転車で通っていたのが、夢のようです。 

 

2008年07月31日(木)*ダンス

 うひゃあ。ついに来週本番です。ワークショップのパフォーマンス。
みんなが自由に羽根をのばせる余地をできるだけ持たせながら、作品として最小限の枠組みを作るという姿勢でやってきて、けっこうそんな感じのものが出来たように思うんだけど、あとはどうやって全体のトーンをもう少し上げていくか、というところだなあ。

 

2008年07月21日(月)*ダンス

 いろいろぐずぐずしていたので、チビッコの振り付けがぜんぜん進まず。明日からの夏休み特別レッスンで発表会の作品の練習を始める予定なのに、まだ選曲ができていない部分もあり、どうするオレ。
実は、自分は振り付けを創るのが遅く、特にチビッコのソロとなると、その子の個性や好みや得意な動きなど考慮すべきことがいろいろなので、かなりがんばらないとぴったりの作品が出来ない。チビッコ自身はそんなこと知る由もなく、踊りなんて初めからあったもののように思っているらしく、たまに、ええっこれセンセイが考えたの?と驚く子がいたりして、それもまた可愛いんだけどね。
わたしの教室は、今年、大幅に人数が減って、20人程度なのですが、小学生はソロを踊ることに決めているので、8曲はソロを創らないと。しかし!プロたるもの、こんな曲数で四苦八苦しているようではいけません。わたしの知る範囲では、先生というものはひとりで50人くらい生徒さんを持っているのが普通で、すごいなあ、どうやって作品創っているんだろう。経験を重ねれば、作品のストックも増え、創作の技術も向上し、イメージも豊かになって、それほど苦労しないで創れるようになるのでしょうか。
わたしのチビッコダンス教室は、発表会をするようになって今年で6年目。まだまだ駆け出しともいえるし、そろそろ自信を持って仕事をしてほしいともいえる年月だなあ。がんばれオレ〜。

 

2008年07月17日(木)*ダンス

 『ここから始まる』、構成はだいたい固まったけど、結局、最後の曲の候補を2曲持ってワークショップに行く。
このところチビッコの方の仕事がばたばたの時期に入っていることもあり、この3日間完全に寝不足。つうか、昨日は朝までチビッコのイベントのコンセプトを作っていたので、寝てないじゃん。世界が回るぅ。
実は、こういう危機的に疲れている時に意外なほどいい感じの稽古や作品ができることがあり、じゃーん、今日のワークショップは、それでした。といっても、今回のワークショップで自分個人に課したテーマは、自分の価値観を押し付けずに参加者の人の個性や長所をどのくらい引き出せるかということなので、今日の稽古がうまくいったと言っても、みんなが良かったからなのですけどね。
選曲を決めかねていた最後のシーン、両方の曲をスイッチしながらやってみる。で、くだけた明るい気分になれるボサノヴァをやめて、ちょっとありがちにスクエアな作りの環境音楽っぽい現代音楽に決定。ありがちとはいえ、どこまでも瑞々しく爽やかで前向きな音源で、そこがつまり「ありがち」感を醸し出している原因なのかもしれないけど、その音で踊ってみたら、それがすごく良くて、このシーンは、意味付けと枠だけきっちり作っておいてあとはできるだけ即興で自由に踊ってもらいたいので、もしかしたら2度とこんな素晴らしい空気は生まれないかもしれないけど、今日のこのダンスが体験できただけでも、このワークショップをやってよかった。
本番まであと3週間。でも、稽古は週1なので、みんなと会うのもあと3回。あと3回の稽古でどれだけ深められるか。なんだか楽しみになってきました。

 

2008年07月14日(月)*ダンス

 おお、暑い。やっぱり暑いですね。明かりを点けているだけで暑いし、パソコンもステレオも高熱を発しているし、じっと座っていると自分の体から熱が放出されているのもわかる。生きているってそれだけで熱いってことだね。
そんな中、文句も言わずに毛皮を着ている猫群って、、エラい。。。(違うか)。
「ここから始まる」のパフォーマンスの作品で、あと1曲がどうしても決まらなく、じりじりと1日中粘るが、だんだんわけがわからなくなり、ビールに逃げる。ううっ。このように選曲ができなくなった時にジプシーバンドとかロマとか聴いちゃうとダメですね。だって、かなり絶対に合わないのに、なんかぼーっと聴いちゃって、そして、たたみかけるような音に、もうどうでもいいやって感じになってくるんだよね。
決まらないのはラストの曲で、不思議なほどまったく決まらないので、もしかしてこのシーンいらないのかなあ、と発想の転換。そうするとずいぶん短い作品になっちゃうんだけど?
まあ、作品の長さはどうでもいいとして、ラストシーンが無い作品って、いったい。つまりそれは、なにかまずいことなのでは?
4月のソロの時から創りかたが変わってきていて、今までの理詰めな感じがなくなったんだけど、その創り方に自分が慣れてないっていうか、これでいいのかどうか、どうもピンと来ない。たぶんポイントがつかめてないんだろうな。
とにかくあさってのワークショップまでには作品の全体像を出しておかないと。
自分が踊るならいいけど、ひとが踊るものなので、先の見えないこの感じ、なんとか早く脱したいものです。

 

2008年07月13日(日)*ダンス

 おお!ギラギラシート効果!!
朝から良く晴れ、お日様がそれこそ「ギラギラ」であるにもかかわらず、室温は南側で30度。この程度ならクーラーは必要ない。扇風機でOK。ギラギラシートのおかげで、向かいのビルからの視線も遮れるので窓を開けても気にならないし、夏が一気に快適な印象に。
快適な室内環境を獲得できたので、仕事もがんばれオレ。今日は、ワークショプのパフォーマンスの作品をまとめる予定。選曲の調子がどうもおかしくて、音がぜんぜん決まらないの。何となく手に取ったCDでドンピシャっていう、いつものあの感じが、来ない。
数ヶ月前、故カワサキさんの奥さまが、「神蔵さんの役にたてて頂ければ」とカワサキさんの残したCDをたくさん下さって、その中には、バルカン半島のあたりの音源や、ファドのギターのすごくいいライブ版など、出会えて嬉しい音源もいろいろあって、わたしの音楽棚は豊かになっているはずなのですが、逆に、自分のセレクトじゃないものがたくさん入ってきているということで、無意識が混乱しているのかなあ。
話はずれますが、CDをいただきにカワサキさんのお宅にお邪魔した時に、奥さまがあまりにもきっぱりと一枚も残さずに袋に詰めようとするので、「なにか一枚くらい思い出に取っておかれては?」と言ってみたら、彼とは音楽の趣味が違うので持っていても聴かないから、という返事。
「わたしにはエルビスさえいれば!」と、プレスリーのCDをかけながら、DVDとCDがセットになった「豪華版エルビス・プレスリー」を、「これ、カワサキが買ってくれたのよ、わたしがエルビスを大好きなのを知っていたから」。
乙女のような笑顔に、素敵な夫婦だったんだなあと、しみじみしました。

 

2008年06月05日(木)*ダンス

 大串さんの『ラスコー解読』のパフォーマンス、無事終わりました。
今回は、大串さんの作品の中ではかなり演劇的な要素が強かったみたいで、常連の人たちから「いつもとぜんぜん違っていた」という感想を頂きました。でも、わたしは初めてなので、そして、大串さんの作品はまだ二つしか観ていないので、いつもとの違いはわからないのですが。
演劇的というのには、インスタレーションの中に既製品の椅子が入っていたことが案外大きいのかな、と思いました。椅子があるだけで、側に置かれた台がテーブルに見えるし、テーブルの上に観葉植物が置かれたので、それだけで「生活空間」を連想するもんね。人間のイメージってけっこう既成概念に取り込まれたものなんだなあ。と、しみじみ。
今回の空間のテーマは「日常の家と外の世界の対比」。だから、「生活空間」は狙い通りというわけです。テーブルの観葉植物について付け加えると、さすが美術家と感心したのは、テーブルの上に直接土を盛って植物を覆ったところ。それだけで、実は異様な「生活空間」が完成していました。
パフォーマンスは、おもしろかったです。できがどうだったのかは、わかりませんが、やっていておもしろかったのでそう悪くはなかったのかな。いつも思うけど、自分が出ていると観ることができないので、ここら辺の自己評価みたいなものって難しいです。
段取りだけを簡単に打ち合わせ、「ぼくは本番になると人が変わりますので」と静かに語る大串さんに、つうことは!もしかして!ちゃぶ台(テーブルね)をひっくり返したり、「こなごなに砕きます」と言っていたガラス瓶が飛んできたり?とオソロシイ妄想に襲われるが、実際はそういうハプニングはなく、そういう意味ではわりかし安全な?パフォーマンスでした、ホッ。
大串さんファンのわたしとしては、出ていると観れないので、次回は観客としてゆっくりと、と。『ラスコー解読』の次回は、9月の第1水曜日だそうです。


2008年06月02日(月)*ダンス

 先日、地球の寿命をあと10年と試算する学者がいると聞いて、もちろん地球が無くなっちゃうのは困るし、ちいさな子どもや自分以外の生命のことを思うとそれはとんでもない危機ですが、「あと10年」を自分の人生に限って考えれば、「それならそれでいいや」と思い、そんな自分がちょっと意外でした。
 以前だったら、どうしよう!時間が足りない!と、相変わらず何者にもなれていない自分を強烈に焦ったはずなのに。

 あと10回桜が見られて、あと10回自分の公演ができれば、それでいいじゃないか。

 これってどういう心境なんですかねえ。我ながらあまりにも冷静で客観的な状態なので、それがどういった気分なのか、いまひとつわかりません。投げやりな気持ちではないし、もちろん自暴自棄なわけでもないし。そう悪くない意味で、いろんなことがどうでもいいといったところでしょうか。あるいは、時間に限りがあるということをビビらずに受けとめることができるようになったということでしょうか。
そうそう、「あと10回」云々と書いていて、ふと前にも似たようなことがあったなあと思い出したのが、2年前かな、タバコをやめた時のこと。あるとき友達に「わたし、タバコやめましたの」と言っているのがまるで他人の発言のように聞こえ、それはもちろん自分が言ってるんだけど、やめようと思ってたわけでもないし、唐突にそういう発言をすること自体まったく予想外で不思議だったのですが、それ以来、ふっつりと吸わなくなり、結果的には言った通りになりました。
今思うと、あの口調はどうみても自分の話し言葉ではなかったので、自分以外の何かに言わされてたのかもしれないけど、あの時と同じ種類の他人事のような客観性なんですよねえ、「あと10回」って。
もしかしたら、ほんとうにあと10回なのかもしれない。
と、再度、たたみかけても全然焦らないところが、ほんとうに自分らしくないのでした。


2008年05月21日(水)*ダンス

 この一週間も、なんだか訳のわからないような忙しさで、寝ていても頭がくらくらするような日々。ギークンのウンチがゆるゆるだとか、台風の気圧の変化についていけず体調を崩したり、まあちょこちょこといろいろあるけど、とりあえず日記を書く余裕が戻ってきたみたい。
 こんどのパフォーマンスの打ち合わせで大串さんに会う。2時間ぐらいじっくり話を聞いたら、大串さんがラスコーの壁画から何を読み取って、何を訴えようとしているのかがよくわかった。わたしのテーマとも重なっているし、理解してみれば、すごく普遍的でノーマルな価値観だ。
 「ラスコーの壁画は人間の脳の全投影図だ」と最初に聞いた時は、「んー、これは理解できるわけがない」と思ったけど、それは、使われている言葉に不慣れだったために、自分の言葉に引き寄せて理解しようとしていたせいなのだろう。自分の持っている語彙にいちいち変換しようとするからわからなくなる。これって、外国語の会話に通じるものがありそう。言葉を翻訳しないでそのまま理解できればスムーズにいくんだろうな。と、書いていて思い出したんだけど、こういう理解の仕方を以前、夢で見たことがありました。どこかの見知らぬ国の言葉を、ああ、こうすればわかるのか、と、新しい洋服に袖を通すような感覚で捉えるの。自在にしゃべれるようになるというのとは、ちょっと違う感じなんだけど、夢の中では理解の仕方がはっきりわかって、おもしろかった。
 こんどのパフォーマンスは、設定と空間が決まっているだけで、お互いに即興で動いていくというもの。大串さんの具体的なオーダーは、「日常的な動作の繰り返し」のシーンを作るということだけで、そこから先にどういう世界が開けるかは、それぞれの表現ということになるみたい。
大串さんは、ちょっと申し訳なさそうに、ダンスという感じではないかもしれない、と言っていましたが、そうでもないような気がする。もちろん、音楽があって動きがあって、という形式ではないけれど、「そこから先の世界」は、ダンスで表現するのに適しているような。



 
 
 
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